昭和40年代の大阪

昭和40年(1965)1月15日 天王寺動物園
明治15年(1882)の恩賜上野動物園と明治36年(1903)の京都市記念動物園に次ぐ 三番目に古い動物園で
今宮で開催された第五回内国勧業博覧会・余興動物園の動物を 大阪府が引き取り収容したのが始まり
その後 府から大阪市に移管され 勧業博覧会跡地の天王寺公園内に動物園が開設された
開園開業は大正4年(1915)1月1日であった 開園当初は ラクダ・馬・鹿のほかは
ハト・ウズラ・ガン・カモ・フクロウの鳥類のみの飼育であったが 順次動物の輸入を図り充実させた
昭和9年(1934)には 年間有料入園者数は過去最高251万人を記録した
しかし第二次大戦中は ライオン・トラ・ヒョウなど猛獣29頭の殺処分が行われた また食糧不足から
ゾウやキリンなどが栄養不足で死亡 戦禍によって猛禽類も33羽が失われた
昭和32年(1957)殺処分や戦禍によって死亡した動物に対し 園内に「動物慰霊碑」を建立した

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柵の中に入ったり ゴミを中に投げ捨てたり まだまだ日本人のマナーが悪かった時代である

昭和43年8月 くろんど池自然公園
10代の終わり頃にキャンプに行った 漢字では黒添池と書く 隣県の奈良県生駒市にあるが大阪府民の森である
1300年前の奈良時代に 蔵人職を務める貴族の荘園灌漑用として造成されたと伝わる
蔵人(くろうど)が転訛して「くろんど」になったと言う説があり 江戸時代初期には灌漑設備として強化され
ほぼ現在の形になった 昭和39年 下流に高山溜池が造成され主な灌漑用の取水は下流に移されたが
 今でも奈良時代から続く農業用水としての役目は失っていない

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昭和43年-44年(1969) 大阪港 天保山公園
木津川と並び 大阪湾と大坂城下を結ぶ淀川本流にあたる安治川は 貞享元年(1684)に 幕府直轄工事として
請負人の河村瑞賢により九条島を開削して出来た新川であり 海運上重要な運河であった
150年後の天保期には 淀川が運ぶ大量の土砂によって船の運航に支障を生じた為 天保2年(1831)から
約2年間にわたり「天保の大川浚」とよばれる浚渫工事が行われた
大坂町奉行指揮のもと 延べ10万人以上の労働力がつぎ込まれ 工事自体が「お祭り騒ぎ」であったと伝わる
川底を浚えた土砂は 安治川への進入口目印とする意図もあって河口に積み上げられ
出来た築山は十間(約20m)ほどの高さになった 当初は目印山(めじるしやま)と呼ばれたが
後に工事時期の元号をとって「天保山」と称されるようになった

明治21年(1888)海水温浴場「海浜院」を中心に 保養地として天保山遊園が開設されたが長続きしなかった
明治30年(1897)天保町および川南村が大阪市へ編入され 海港の造成も開始されて一帯は築港と呼ばれた
昭和33年(1958)に現在の天保山公園が開設され 昭和36年(1961)12月には市営地下鉄中央線の
弁天町-大阪港駅間が延伸開業した 1990年に海遊館 1994年にサントリーミュージアムが開館した

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<左上>今も存在する天保山渡船場

<上>瀬戸内木造貨物船と外洋大型船

 港では木造船と荷役の艀(はしけ)が主流であったが 艀はコンテナ船と大型クレーンの登場で壊滅した

 また艀に住む海上生活者も多く存在していた

<左>海洋少年団


 安治川河口の右岸は 明治30年(1897)に埋め立てられ桜島と名がついた その後住友財閥の大規模工場が建設され発展した 国鉄桜島駅は明治38年(1905)に開業した西成鉄道の天保山駅が前身である

 同じく河口の左岸は 明治30年(1897)頃から築港と呼ばれ大阪港の中心地となった

 昭和36年(1961)12月に高速鉄道4号線の国鉄弁天町ー大阪港間が開通し 昭和39年10月には本町駅まで延伸仮開業した 昭和42年9月には谷町四丁目ー森ノ宮駅間を開業 昭和43年7月には深江橋駅まで延伸開業した

 本町ー谷町四丁目駅間が本開業したのは 昭和44年(1969)12月6日であった 予定する路線の全てが開業し名称が中央線に決まった


昭和44年 梅田・御堂筋・中之島・難波
御堂筋の名は 沿道に北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)があることに由来する
昔から大阪では 南北の道を筋と言い 東西の道を通りと呼ぶ
1920年代から30年代にかけ 大阪市が堺筋に代わる新たな南北目抜き通りとして整備・拡張を行った筋である
拡張と同時に 日本初の公営地下鉄の御堂筋線の建設を行い街路樹も植栽され 大江橋以北はプラタナス
淀屋橋以南はイチョウを植えた しかし 後年になって大江橋以北もイチョウに植え替えられている
大江橋と淀屋橋は現在の橋に架け替えられ 長堀川に新橋が道頓堀川に道頓堀橋が初めて架橋された

電車軌道のない南北一直線の目抜き通りとなった御堂筋は 沿道にビルが立ち並びビジネス街として発展した
昭和45年(1970)から 梅田新道交差点以南で全6車線の南行き一方通行を実施し全線駐車禁止となった

銀杏並木の歩道は 恋人達の散策道でもあった 懐の寂しい若者は 北から南へあてもなくそぞろ歩く
私たち夫婦も結婚する前は 季節を問わず北から南へと歩いたものである
先年 30年以上も経って訪ねてみると銀杏の木は大きく育ち「鬱蒼」とした感じがあった

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扇町通 富国生命ビル 曽根崎警察署
阪急デパート前
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国鉄大阪駅前通 阪神デパート前
国鉄大阪駅前通
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大阪市営トロリーバス
終戦後のガソリン不足から 路面電車よりローコストで建設できるトロリーバス路線を開設することになった
昭和25年(1950)に導入決定され 昭和28年(1953)に開業した 以降は市電の通らない地域を中心に
昭和37年(1962)まで路線が延長されたが モータリゼーションの到来で交通麻痺が頻繁に起こり始め
市電とトロリーバスがその元凶とされたことで 全通後早くも撤去が考慮され始めた
昭和40年(1965)から廃止が始まり 万博開催中の昭和45年(1970)6月14日に全廃された
地球温暖化が叫ばれる今では 先進的取組と評価されそうなものだが 高度成長期では邪魔物でしかなかった

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大阪駅前梅田交差点歩道陸橋と阪急百貨店・阪急梅田駅
世界の知恵で未来を築くエキスポ70 万国博まであと405日10時間33分
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中核派の署名運動
大江橋

新左翼・過激派
70年安保闘争では 全共闘や新左翼派の学生運動が過激化し ヘルメットとゲバ棒という特異な姿で
市民運動とは徐々に乖離していった その後は内ゲバと呼ばれる新左翼内や各派内で対立闘争が起き
テロリスト集団の日本赤軍が生まれ浅間山荘事件を引起こした結果 左翼運動からも孤立して新左翼はほぼ消滅した
この過激派による暴力闘争は 革新左翼運動に大きな傷跡を残すこととなり
以降は若年層の無気力化と右傾化を誘発し 市民運動の停滞を招き 今も多大な影響を与え続けている

中之島公園・中之島公会堂
曽根崎川が 明治42年(1909)に上流側 大正13年(1924)に下流側が埋め立てられて消滅するまで
北には 曽根崎川と堂島川に挟まれた堂島と 堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島の二つの大きな中洲があった
明和3年(1766)には中之島東端が埋立られ 「山崎ノ鼻」と呼ばれる新地が出来て 遊興地・景勝地となった
明治12年(1879)に豊國神社が造営され 明治24年(1891)淀屋橋から東側が大阪市初の市営公園となった
明治後期に大阪ホテルや大阪府立中之島図書館などの洋館が建ち 大正期には新しい難波橋が架橋された
大正4年(1915)には 当時の難波橋から天神橋の上流までを埋立造成して公園を拡充した
大正7年(1918)に竣工した中之島公会堂の建設に伴い 豊國神社は中之島図書館の西側へ移転し
大正10年(1921)豊國神社の西側に大阪市庁舎が竣工して 中之島公園は洋風の公園に生まれ変わった
昭和36年(1961)大阪市庁舎増築工事が始まり 豊國神社は旧大阪城内の現在地へ再び遷座した

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栴檀木橋から土佐堀川
中之島公会堂
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中之島公会堂(大阪市中央公会堂)
大阪北浜の相場師・岩本栄之助が 明治44年(1911)に建設費として 父の遺産と私財をあわせた
100万円(現在の価値で約11億円)を寄付し建設された 設計は懸賞金付きコンペ方式で行われ
岡田信一郎の基本設計案を採用 辰野金吾・片岡安が実施設計を行った 建設工事は大正2年(1913)6月に着工し
大正7年(1918)11月17日に竣工式典が行われた しかし 栄之助は第一次大戦後の相場変動で大きな損失を出し
公会堂の完成を見ないまま 大正5年(1916)に自殺した

建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建で 意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ バロック的な壮大さを
合わせ持ち 細部にはアール・ヌーヴォーの一環であるセセッション様式を取り入れている
アーチ状の屋根と 洋画家・松岡壽の日本神話の天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴である

 平成14年(2002)12月に国の重要文化財に指定

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淀屋橋 ビルは今もそのまま
土佐堀川に映るネオン
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大阪市庁舎 みおつくし(澪標)の鐘
大正7年(1918)6月に着工し 大正10年(1921)5月に竣工した三代目の大阪市本庁舎
手前は 昭和39年(1964)9月竣工の別館 昭和57年(1982)6月に新庁舎建設のため惜しくも解体された
澪標は 昔の難波津の浅瀬に立てられた水路の標識で 明治27年4月に大阪市の市章に制定された
みおつくしの鐘は 昭和30年(1955)地域婦人団体協議会が 青少年をまもる愛の鐘建設募金運動を始め
母の愛を象徴する「記念鐘」を製作 同年5月5日に午後10時を鐘のメロディーで知らせる時報装置と共に
大阪市に寄贈され 市庁舎塔に設置されたものである 旧市庁舎解体後は塔と共に本庁舎屋上に設置保存

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休日のオフィス街 車はスズキ・フロンテ SDX ナンバープレートは白色
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上右写真 船場センタービル
  大阪市のほぼ中央を東西に通る中央大通りの建設により 用地となった船場の唐物町南部・北久太郎町北部
上町の農人橋詰町北部・両替町南部・農人橋北部の代替地として 昭和45年(1970)に竣工した
道路を高架として下部に 東から1号館から西端の10号館まである 規模は地上2階が 1・10号館
地上3階が 2号館 地上4階が 3-9号館となっており 地下は2号館のみ地下3階 その他は地下2階である
繊維織布アパレル関係の問屋や会社の入居が多い

船場は 大坂に於ける商人文化の中心となった地域で 東西の横堀川と北の土佐堀川
及び 南の長堀川に囲まれた南北約2km・東西約1kmの区画を指す

現在の町名では 北浜・今橋・高麗・伏見・道修・平野・淡路・瓦・備後・安土・本町・南本町・船場中央
久太郎・北久宝寺・南久宝寺・博労の17町である

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公衆電話ボックス
昭和43年(1968)7月 東京23区内でポケベルサービス開始 昭和54年(1979)12月 自動車電話サービスを開始
昭和57年(1982)12月 電電公社によるテレホンカード発売開始 携帯電話が普及する以前は ポケベル・テレカ
そして公衆電話が重要な通信手段であった 昭和60年 自動車電話に電源部を搭載しショルダー型の携帯電話を発売
平成3年(1991) 超小型機種シリーズの「mova」が登場 平成7年(1995) PHS方式の携帯電話発売
平成11年(1999) インターネットサービスとE-mail開始 携帯電話が一挙に普及して公衆電話が激減していく


昭和47年12月 梅田三番街
「EXPO'70」開催前年の昭和44年(1969)11月30日 阪急梅田駅の拡張移築に合わせて開業した
「川が流れる街」をスローガンにして 地下街に人工の川を建設した
昭和46年(1971)11月 第2期工事で人工の滝がつくられ 昭和48年11月 第3期工事が竣工し全館が完成した

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梅田三番街
船場の旧家
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船場 久太郎町
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昭和47年12月 心斎橋そごう百貨店屋上
子供にとってデパートは「ワンダーランド」であった おもちゃ売場で遊び 大食堂でお子様ランチを食べ
屋上遊園地でまた遊ぶ 思い切っておしゃれをして電車に乗って出かけるその日は「ハレの日」であった

1970年代の中期にはテレビゲーム機が発売され 続いてゲームセンターが各地に登場した 子供の遊びは
インドア化してデパートは「ワンダーランド」ではなくなった そして同時期にファミレスが出来たため
大食堂も終焉を迎えた そして防災上重要視されたデパートの屋上からは またたく間に遊具が姿を消した

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昭和44年 大阪国際空港(伊丹空港)
大正区にあった大阪飛行場の移転先として 昭和14年(1939)1月17日に開港した大阪第二飛行場が前身である

日中戦争の勃発によって軍民共用飛行場となり陸軍飛行隊機の発着も行われ 大戦後期の本土空襲時には
京阪神大都市圏の防空に活用されたが 敗戦後は接収されアメリカ軍が駐留「伊丹エアベース」と呼ばれた

昭和25年(1950)11月に占領軍による日本の航空禁止令が破棄され「国内航空運送事業令」が公布され
アメリカ軍支配下の昭和26年には日本航空が東京便・福岡便の運用を開始した
昭和33年(1958)3月に返還され大阪空港として再出発 昭和34年7月に第1種空港指定され大阪国際空港に改称
万博開催前年の昭和44年(1969)2月に現在の旅客ターミナルビルが完成した
万博開催直前の昭和45年(1970)2月には3000mの滑走路が供用開始され 現在の大阪国際空港がほぼ完成した

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戦後国産初の旅客機 YS-11
昭和39年(1964)に生産開始された純国産旅客機
「オリンピア号」としてオリンピックの聖火を国内各地に空輸した
昭和48年(1973)生産停止
9年間で生産された機体数182機 その数は小型機の代名詞となっていたフレンドシップ機に続く第2位を確立
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昭和46年(1971)1月3日 大阪市住吉区住吉 住吉大社の初詣
祭神は住吉大神の底筒男(ソコツツノオ) 中筒男(ナカツツノオ) 表筒男(ウワツツノオ)
神功皇后(息長足姫=オキナガタラシヒメ)の四柱
神功皇后が住吉大神の神託を得て朝鮮に出兵し 日本に凱旋後 住吉大神を祀ったのが始まりとされ
後に神功皇后も自らの意志によって祀られた 古くは名神大社とも呼ばれる摂津国一宮であった
永きにわたり海路平安の神として朝廷から厚く崇敬された また農業殖産の神として庶民の参詣も盛んとなり
摂津難波の鎮守として初詣や祭礼に大変賑わった 昭和21年(1946)住吉神社から古称の住吉大社に戻された

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一方通行の太鼓橋を慎重に渡る初詣客
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1968年頃 梅田本社時代 社内レク 場所不明

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ツイスター(Twister)ゲーム 1966年にアメリカのハズブロ社が発売
手や足を スピナーと呼ばれる回転する指示板によって示されたシート上の赤・青・黄・緑の●印に順次置いて
倒れないように競うパーティゲームである 体の柔軟性とバランスが試される
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