奈良 大和路

『夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯』
古事記に載る 倭健(ヤマトタケル)の辞世・望郷の歌である
「やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる やまとしうるはし」と読み
意味は「大和は国の中で一番良い所だ 幾重にも重なり合う青垣のような山々に籠る大和は麗しい」である

「大和」とは 古代ヤマト王朝が現在の奈良県内に存在したことに由来するが 地名が先か政権王朝名が先か
判然としない 神武天皇の東征が事実としても 九州に「ヤマト」と呼ばれる地名が 現在でも数か所確認される
古墳時代に漢字が流入すると 中国で日本列島に住む人を「倭人」と呼び地域を総じて「倭」と呼んでいたため
ヤマトにそのまま「倭」の字を当てはめた 和銅6年(713)に国名や郡名を二字とする政令が定められ
「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた
「倭」は中華攘夷思想に基づくもので 小さい人または小国を表す侮蔑文字であるとされる意見も存在する

歴史学上での「大和時代」は 神武天皇の東征による政権樹立から長岡京遷都までの期間を総じた呼称である
その中には 古墳時代・飛鳥時代(天平時代)・奈良時代が含まれ 渡来人による漢字や仏教の伝来
乙巳の変 白村江の戦い 壬申の乱などの戦争と動乱があり 大宝元年(701)には大宝律令が定められた
大和時代の間に数回に及ぶ遷都を繰り返してきたが 延暦3年(784)に桓武天皇によって長岡京へ遷都され
10年後の延暦13年(794)には 平安京に再度遷都され 以降明治まで 大和国に都が戻ることは無かった
明治に東京が首都となるまで 朝廷のあった平安京は 行政機能は別として首都であった事は間違いない


昭和55年(1980)11月 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 聖徳宗総本山 法隆寺
山号は無い 本尊は釈迦如来像 別名に斑鳩寺(いかるがでら・別字に鵤寺) 7世紀の創建とされ
金堂の薬師如来像光背銘から推古天皇15年(西暦 607年)と推定できる 聖徳太子ゆかりの寺院であるとともに
歴代の権力者によって篤く保護され古代寺院の姿を今に伝える 境内の面積は約18万7千平方メートルあり
金堂・五重塔を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とした東院伽藍に分けられている
西院伽藍は 現存する世界最古の木造建築物であり 法隆寺の建築物群は法起寺と共に
平成5年(1993)「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録された

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西院伽藍 金堂・中門・五重塔
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東院伽藍 夢殿
法隆寺

昭和55年(1980)11月 奈良県生駒郡斑鳩町岡本 聖徳宗 岡本山 法起寺
本尊は十一面観音像 古くは岡本寺や池後寺(いけじりでら)とも呼ばれ 聖徳太子建立寺のひとつとされるが
寺の完成は太子の死後数十年を経てのことである 昭和時代「ほっきじ」と読んでいたが
現在の正式名は「ほうきじ」としている

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国宝 三重塔 日本最古の三重塔で 8世紀初頭の慶雲3年(706)頃の建立とみなされる
昭和45年(1970)から昭和50年(1975)まで解体修理が行われ 均整の取れた創建当時の形に復元した

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興福寺五重塔
奈良公園
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春日大社参道
東大寺の土塀と鹿

昭和55年(1980)11月 奈良市雑司町 華厳宗大本山 東大寺
創建当時の正式名は 金光明四天王護国之寺といい 寺伝記の『東大寺要録』によれば
神亀5年(728)若草山の麓に聖武天皇と光明皇后によって 幼少で亡くなった基王皇子の菩提を弔うため
羂索院を建立し僧侶を住まわせた 天平5年(733)華厳宗の修行僧・良弁を迎え金鐘寺とした寺が起源とされる

天平13年(741)に 聖武天皇の国分寺建立の詔が発せられ 翌天平14年(742)には金鐘寺を大和国の国分寺
および全国の総国分寺と定められ寺名を金光明寺(きんこうみょうじ)と改められた
本尊である盧舎那仏(奈良大仏)は 天平15年(743年)10月に紫香楽宮において大仏造立の詔が発せられ
天平19年より紫香楽で鋳造が開始された この頃から東大寺の名が文献等に現れる また 聖武天皇が短期間に
遷都を繰り返したため 当時の都は山背国の恭仁京にあったが 天平17年(745)に再び平城京に遷都され
大仏の造立も現在の地で 行基を大僧正として迎え改めて行われることになった
大仏開眼会は天平勝宝4年(752)に行われ その後に始まった大仏殿工事の完工は天平宝字2年(758)であった

東大寺では 華厳宗の金鐘寺を開山した良弁 開基の聖武天皇 東大寺の建立に助力した行基
大仏開眼会の導師・インド僧の菩提僊那(ボーディセーナ)を四聖(ししょう)として崇めている

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東大寺南大門
東大寺二月堂からの展望
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東大寺二月堂の登廊
二月堂裏参道
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毘沙門堂と二月堂
二月堂裏参道 寶珠院の土塀
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土塀と柿の木
朽ちる土塀

昭和55年(1980)11月 西の京 薬師寺と唐招提寺
「西の京」は 平城京の右京を西京と称したことに由来し 現在は奈良市西部の郊外に当たる
唐招提寺は平城京・四条大路南の西第二坊に 薬師寺は五条大路南の西第二坊に建立された
一帯は 比較的条里制の名残が現在でも見られる地域で 朱雀大路もその道幅まで航空写真で確認できる

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西の京 薬師寺遠望
唐招提寺 南大門から国宝の金堂
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国宝 奈良時代(8世紀後半) 講堂 平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築・改造
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本尊 重要文化財 弥勒如来坐像(鎌倉時代)

昭和42年(1967)10月22日 奈良県高市郡明日香村 真言宗豊山派 東光山 岡寺(龍蓋寺)
27歳で早世した天武天皇の皇子・草壁皇子が住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したと伝わる
創建時の寺名は 東光山 真珠院 龍蓋寺である 寺名の由来は 義淵僧正がこの地の民を苦しめていた悪龍を
当寺の池(龍蓋池)に閉じ込め石蓋で封印したという故事から命名された 以来「日本初の厄除け霊場」となり
中世期にはその信仰が広まったとされる 現在も観音巡礼・西国三十三所第7番札所となり信仰を集める

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昭和40年(1965)10月 岡寺付近の棚田
昭和40年(1965)10月 岡寺 仁王門
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岡寺 本堂
千社札は江戸時代中期から始まる
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岡寺から石舞台古墳を経て談山神社までの約 6kmの道は 有名なハイキングコースである

昭和47年(1972)9月 奈良県桜井市多武峰 談山神社
明治の神仏分離令発布以前は 多武峯 妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)という天台宗の寺であった
寺伝によれば 天武天皇7年(678)に 藤原鎌足の長男・僧の定恵が唐からの帰国後に 父である鎌足の墓を
摂津国茨木の安威(あい)から当地に移し その墓の上に十三重塔を造立したのを発祥とする
2年後には講堂が完成し寺号を妙楽寺とした 大宝元年(701)に塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂を建立し
聖霊院とした 明治の廃仏毀釈によって講堂は拝殿に聖霊院は本殿となり 藤原鎌足は主祭神として祀られた

談山の名は 大化元年(645年)5月に中臣鎌足と中大兄皇子が 蘇我入鹿暗殺の談合をこの多武峰にて行い
後に「談い山(かたらいやま)」や「談所ヶ森」と呼ばれたことに因む この企ては永きに渡って
「大化の改新」と名付けられ伝えられてきたが 近年では「乙巳(いっし)の変」として
権力奪取のクーデターとして捉えられている 明治2年(1869)の神仏分離令により僧侶は還俗して神職となり
本尊の阿弥陀三尊像は安倍文殊院に移され釈迦三尊像となり 如意輪観音像は秘仏として神社に残された

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昭和47年(1972)9月 多武峰 談山神社
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昭和42年(1967)10月22日
昭和42年(1967)10月22日
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重要文化財 十三重塔 室町時代の享禄5年(1532)再建 現存する世界唯一の木造十三重塔
一般に十三重塔は石を刻んで作られる 塔は仏舎利の一種でアジアに広く分布する
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昭和47年(1972)5月 奈良県葛城郡當麻町 真言宗・浄土宗 二上山 當麻寺(たいまでら)
創立期については不明な点が多いが 寺伝によれば推古天皇20年(612)とされ
開基は 聖徳太子の異母弟の麻呂古王とされている 奈良・平安時代の建立とされる東西二基の三重塔があり
中世期以前の東西両塔が残る日本唯一の寺である 当麻の里は 奈良時代の伊勢街道に繋がる桜井から
西へ伸びる横大路の西端に位置し 難波に至る竹内峠・岩屋峠・穴虫峠などに分岐する交通の要所であった

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昭和47年(1972)11月 奈良県宇陀郡室生村 真言宗室生寺派大本山 宀一山 室生寺(むろうじ)
「宀一」は「べんいち」と読み「室」のウ冠と「生」の最後の一画である 別山号に檉生山(むろうさん)もある
奈良時代末期の宝亀年間(770-781)に 興福寺の僧・賢璟によって開山された古刹である
創建時より中世期まで興福寺の末寺であったが 江戸時代の元禄7年(1694)に新義真言宗の僧・護持院隆光が
将軍綱吉より拝領し 江戸護国寺の末寺となって真言に改宗した 元禄11年(1698)に護国寺から独立した
昭和39年(1964)に真言宗豊山派から独立 真言宗室生寺派の大本山となった
真言宗総本山の高野山 金剛峯寺と違い 一貫して女人禁制の方策は取られず「女人高野」の別称は今も名高い

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奥ノ院の「おみくじ」はほぼ凶らしい 浮かれず地道に努力して進んで欲しいという想いが 寺にあるとか
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室生村(むろうむら)は 80%以上が山林で占められ 水田の面積は10%にも満たない山間部にある
火山性地質のため 奇岩や洞穴が多く 洞穴には竜神が住むと云われ雨乞いや治水安全の龍神信仰の霊地とされた

山の辺の道
奈良上街道(上ッ道)の東側 山裾を縫うように三輪から奈良へ通じる歴史上最古の古道と言われる
全長は約26kmある 中でも古道の雰囲気を残す桜井から天理までの16kmは 車や自転車では
通行困難な個所があり 一般にハイキングコースとされている
JR桜井線(万葉まほろば線)が並行しているため ハイキングコースの利便性は高い

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昭和46年(1971)3月 奈良県桜井市箸中 箸墓古墳
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溜池が多い
環濠集落
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満開の梅畑
大神神社(おおみわじんじゃ)
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昭和43年(1968)10月13日 社内レク 奈良県御所市櫛羅 大和葛城山
古くは金剛山を含む大和国との国境にある葛城山脈を総称して葛城山と呼んだ
大和葛城山は大和国では戒那山(かいなやま)や天神山あるいは鴨山と呼ばれ 神聖視された霊峰であった
河内国では篠峰(しのがみね)と呼ばれたが 葛城という地名は金剛山地東麓の地域を指し
古代豪族であった葛城氏の本拠地であった 葛城氏は その後 山城国の鴨氏や賀茂氏に繋がるとされている

標高958.6mの三角点は大阪府南河内郡千早赤阪村水分にあるが 山上の園地は奈良県側と大阪府側に分かれる
近畿日本鉄道の葛城索道線(通称・葛城山ロープウェイ)は 昭和42年(1967)3月に開通
また山上にある御所市営の国民宿舎葛城高原ロッジも 同年11月の開業である

かつての山頂付近は葛城高原と呼ばれる笹の原であったが 1970年代に数十年に一度といわれる笹の花が咲き
一斉に枯れるという現象が起こった そのあと原野に自生していたヤマツツジが自然繁殖したものである
現在は 山ツツジを保護する施策がとられ開花時期には多くの観光客・登山客が訪れるようになった

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葛城山ロープウェイ登山口駅
葛城山ロープウェイのゴンドラ
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ロープウェイと御所市を俯瞰
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登山道から御所市側
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樹林帯を抜けると山頂の草原
山上から御所市
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飯盒で飯を炊くことを「飯盒炊爨(はんごうすいさん)」といった 現在では飯盒炊飯と言うらしい
火起こしと飯炊きは男の仕事という「暗黙の了解」が何故か存在していた 今ではどうなのだ?
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山頂で「すき焼き」 食材はロープウェイで運び込み 器材はキャンプ場でレンタル
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後片付け 借りた物はキレイに洗って
食後の運動にバレーボール
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縄跳び
記念撮影

昭和48年(1973)5月 日本最古の官道 竹内街道(たけのうちかいどう)
『日本書紀』によれば 竹内街道は飛鳥時代の推古天皇の御代 西暦 613年に敷設された官道である
現在の国道を含む「国権によって管理される道」という意味においては最も古い道となる
史料によれば幅員は30mあり 丹比道(たじひみち)と言われる国家の威厳を表すものであったとされる
古墳時代末期から飛鳥時代の大阪平野には 内海となる河内湖が広がり羽曳野あたりまで及んでいたとされ
丹比道は 上町台地の北端にある難波津から台地上を南下し 河内台地の羽曳野を通り太子から峠を越えて
奈良盆地南部を東西に横切る横大路へと繋がり 飛鳥の北端をかすめて初瀬道(伊勢街道)へ通じていた
近世の竹内街道は 堺の紀州街道と大小路の交差を起点として東へ向かい 二上山の南麓・竹内峠を越えて
葛城の長尾神社に至る街道で竹内街道と呼ばれた 道程は約26kmであるが 古代の丹比道を現すものではなく
その多くは宅地化などによって消滅している ただし羽曳野の白鳥交差点から葛城の竹内集落付近までは
ほぼ国道166号線となっており 大阪府初の日本遺産に認定されている

近鉄南大阪線の磐城駅から古市駅まで歩く 距離は約16km

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1.近鉄南大阪線 磐城駅 2.長尾神社 3.春日若宮神社 4.鹿谷寺跡 5.餅屋橋 6.科長神社・小野妹子墓
7.飛鳥川・月読橋 8.飛鳥戸神社 9.石川 10.近鉄南大阪線 古市駅

昭和40年代の竹内峠は 曲がりくねった狭い未舗装道路であったが 竹内集落を迂回するバイパス道が建設され
峠部分も拡幅されて古い街道は破壊された 現在峠には南阪奈道路のトンネルも貫通している

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峠に向かって徐々に高度を上げる
竹内集落から大和三山を望む
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昭和48年(1973)当時 北葛城郡當麻町大字竹内 竹内街道
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上り坂の竹内街道
春日若宮神社から見る竹内集落と奈良盆地
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大和屋根と虫籠窓の民家
竹内峠の常夜灯
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竹内峠へ上る街道
県境の竹内峠

近つ飛鳥の里
河内飛鳥とも呼ばれる古代河内国安宿部(あすかべ)郡のうち 羽曳野市東部から太子町周辺を指す名称
近つ飛鳥の「近つ」は 難波宮や難波津から見ると 大和国の飛鳥と比べて近いからというのが通説となっている
しかし異説も多く確たるものでもない 古代では蘇我氏が招いた渡来人が河内湖に面する台地に多く住み
飛鳥戸氏を名乗ったことから飛鳥戸とも呼ばれた 別表記では飛鳥部・安宿戸・安宿などがある
また域内には古墳が多く応神朝の中心地であったとされる 磯長谷には敏達・用明・推古・孝徳の各天皇陵墓と
聖徳太子廟などが集中し 現在はエジプトの王家の谷のように「王陵の谷」と通称されている

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峠の鹿谷寺(ろくたんじ)遺跡
8世紀頃に凝灰岩の石切場跡に作られた 中心部は石切場跡の尾根を幅10m程度南北に切出して造成されている
遺構は 凝灰岩を切残して造られた十三重塔と石窟に浅く線刻された三尊坐像
および西側岸壁寄りの小岩塊に浮彫された仏立像一体があるのみである 十三重塔の南面には舎利孔が穿たれている
石窟内の三尊坐像は比較的保存状態もよく 光背や衣の襞・蓮華座も認められる
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切残して造られた十三重塔
「鹿谷寺之蹟」石碑と二上山雌岳
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太子町 岩屋口 峠の地蔵
道標 圓光大師二十五霊場 明和三丙戌年
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道標 右 大坂さ(かい道)( )内は地中」
峠からの下り坂路
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傍の石祠
伊勢燈籠
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国登録有形文化財 大道旧山本家住宅 茅葺き大和屋根民家
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餅屋橋を渡り 科長神社と小野妹子墓へ
道標 左 竹の内街道 右 小野妹子の墓
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科長神社
小野妹子墓
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二上山と竹内街道
河内郡太子町 竹内街道
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河内郡太子町春日
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羽曳野市飛鳥 上ノ太子
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羽曳野市飛鳥 上ノ太子 
羽曳野市駒ヶ谷 月読橋
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飛鳥川
杜本神社(もりもとじんじゃ)
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杜本神社の隼人石
高さ1m程度の砂岩に 獣面人身の立像が線刻されており 隼人石と名付けられている 隼人とは九州南部の民で
古代朝廷の近衛兵として仕えた 同じような獣面人身の立像は 奈良市の奈良阪町奈保山中にある那富山墓の
墳周に立てられており 干支を表す十二神像という説が有力視されている 渡来人の作とする説もある

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羽曳野市古市 東高野街道側の銀屋船板壁
豪商の銀屋は 竹内街道と東高野街道が交差する古市の中心部にあった 寛政11年(1799)の屋敷絵図が残り
18世紀中ごろの建築と推定されていた 当時では珍しい総瓦葺きで 外壁の一部に石川を行き来した
剣先船の船板を利用していた 各藩の藩札の交換などをする両替商であったとの言い伝えもあり
古市の賑わいを偲ばせる建築物であったが 老朽化によって取り壊され現在は見ることはできない
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羽曳野市飛鳥 ぶどう畑と飛鳥戸神社
羽曳野市古市 西琳寺址
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西琳寺址 塔心礎
国道166号線(竹内街道)と近鉄南大阪線
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