昭和40年代の岡山県倉敷市・吉備路・下津井町

昭和46年(1971)3月15日/昭和47年(1972)3月19日 倉敷川畔の特別美観地区

古代では 現在の倉敷一帯は吉備国に属していたが 7世紀後半の吉備国分割によって児島郡が備前国となった
中心部となる美観地区は 児島と本土に囲まれた吉備の穴海と呼ばれた内海湾に浮かぶ鶴形島の集落を起源とする
平安時代初期には高梁川の堆積作用によって島は陸続きとなり 周辺には阿智潟と呼ばれる干潟が広がっていた

奈良時代から干拓が始まり中世以降は干拓規模も肥大し 江戸初期には岡山藩による干拓で児島は陸続きとなって
半島となり児島湖ができた 慶長19年(1614)に備中松山藩の代官所がおかれ上方への海運輸送の集積地となった
代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加し 年貢米の集積地として発展し商人の町として栄えた
倉敷村は 寛永19年(1642)に江戸幕府直轄領となって幕府代官所が置かれ陣屋町となった
高梁川と児島湾を結ぶ倉敷川が開削され 内陸の港町となって益々栄え豪商の蔵が建ち並ぶ商家町として繁栄した

倉敷という地名は 中世期以降の干拓によって新田が増加 それにつれて寺社領・知行地・藩領が輻湊して
それぞれ領地より年貢米を輸送するため 米倉が建ち並ぶ様子の「倉敷地」に由来しているとする説が主流である
その他 多くの蔵屋敷が立ち並んでいたので「蔵屋敷」が訛ったとも考えられている
また「倉とは船蔵屋敷か水夫(かこ)屋敷のことを指す」ともいわれている
倉敷村が誕生したのは16世紀後半であると云われ 蔵敷・倉輔などと記載されることもあった
倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び 天領時代の町並みをよく残している
昭和43年(1968)倉敷市伝統美観保存条例を制定 昭和44年(1969)倉敷川畔特別美観地区を指定


喫茶 エル・グレコ EL GRECO
大正14年(1925)大原孫三郎と側近の原澄治によって大原家及び原家所有の小作農地の管理経営のため
奨農土地管理会社を設立した 翌年には大原邸の川向かいに事務所を建築した
昭和34年(1959)に 両家それぞれの不動産管理をするため会社を分離して事務所を移転した

同年 喫茶店の創始者が 賓客の接待などの依頼を承け大原家に出入りしていた縁で大原総一郎の勧めを受け
空家となった事務所を喫茶店に改装して純喫茶店を開店した
店名は大原総一郎が 大原美術館に展示されている絵画・受胎告知の作者である エル・グレコの名を採用した
建物を覆うアイビー(蔦)は 事務所の設計者である薬師寺主計が大正時代に植えたものである

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改装前の倉敷館(観光案内所)
大正6年(1917)に都窪郡倉敷町役場として建てられた擬洋風の建物 屋根は寄棟で小屋組はトラス組である
塔屋の二重屋根は銅板葺 その他は桟瓦葺で 外壁は下見板張 現在の外壁は白ペンキ塗装仕上げとなっている
昭和3年(1928)の市制施行後の昭和7年(1932)まで市役所として使用 市役所移転後は倉敷市公益質屋
倉敷市農業共済組合事務所・倉庫などに転用後は放置され荒廃していた 昭和43年(1968)の保存請願を受け
昭和46年(1971)に保存修理が行われ倉敷館と命名され 観光案内所及び休憩所として利用された

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倉敷川
かつては高梁川河口の干潟に面した港町であったが 江戸時代から本格的に始まった干拓事業によって
新田に囲まれた内陸部の町になっていった 江戸初期に高梁川を分流し児島湖の八浜に抜ける倉敷川が開削され
潮の干満にあわせて船が行き来する運河として機能した 汐入川や舟入川または前神川とも呼ばれ
昭和30年代の初め頃まで 船による物資輸送が盛んに行われていた 荷捌きする船溜りは少し下流の
倉敷川親水公園付近に設けられたが 昭和34年(1959)には 児島湖の淡水化を図るため潮受堤防が作られ
児島湖との水運は不可能になった また倉敷東西用水路と倉敷川を結ぶ新川が埋め立てられ道路となり
上流から水が供給されなくなった そのため水質が悪化したが美観地区指定後は浚渫や公園化の動きもあるが
単なる水溜りにしてしまった失策の解決には至っていない

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昭和49年(1974)6月頃 倉敷川

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昭和49年(1974)秋 倉敷川

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昭和46年(1971)3月15日 本町から東町界隈

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江戸時代の火消し道具 刺股(さすまた) 団扇 水鉄砲
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倉敷 東町通り 吉備津・岡山道と下津井道の追分
右 由が山 下津井下村/あらわず観音寺 道  左 吉備津/いち里 おか山道
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昭和46年(1971)3月15日 倉敷紡績株式会社 倉敷本社工場跡
明治21年(1888)有限責任倉敷紡績所が設立され 出資者となる大原家当主の大原孝四郎が初代社長に就任した
翌明治22年(1889)江戸時代の代官所跡に紡績工場が建設され 倉敷紡績の本工場として創業を開始
明治26年(1893)に倉敷紡績株式会社に改称し 明治39年(1906)には大原孫三郎が二代目社長に就任した

その後紡績以外の製造会社を吸収合併し 昭和19年(1944)に商号を倉敷工業株式会社に変更し軍需会社となった
昭和21年(1946)大原財閥が解体され倉敷紡績株式会社に商号を戻す 昭和26年(1951)愛知安城工場を竣工
製造拠点を愛知に移し創業当時の倉敷工場を閉鎖 昭和48年(1973)工場跡地をアイビースクエアとして再生

ここに掲載される写真は 工場の閉鎖後からアイビースクエアの開場に至るまでの期間に撮影したものである

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昭和46年(1971)3月16日 吉備路・岡山県総社市
吉備路は 岡山市北西部から総社市にかけて古代山陽道や近世の西国街道が通る一帯の総称である
備中国分寺や国分尼寺跡・総社宮・吉備津神社・吉備津彦神社などの遺蹟や名勝がある一大観光地となっている
倉敷駅から伯備線に乗り 二駅で総社駅に降り立つことができるほど近くにある
倉敷散策後 国民宿舎雪舟荘に投宿 翌日は吉備路を歩く

総社は 古代の吉備王朝の中心地で 現在の岡山県全域・広島県東半分・瀬戸内の島嶼部から兵庫県の西部や
一説には讃岐までもをも支配していたとされるヤマト王権にも匹敵する一大勢力であった
しかし5世紀後半には畿内ヤマト王権に征服され 7世紀後半の持統帝3年(689)備前・備中・備後の三国に分割され
和銅6年(713)には備前国から美作国が引き離された なおも室町時代以降備後国が安芸国に入るなどの分断が続き
現在も 住民感情や経済活動などに少なからず影響を残していると言われている


岡山県総社市井尻野 臨済宗東福寺派 井山 宝福禅寺
三重塔は国指定の重要文化財に指定 総高18.47mあり岡山県下では2番目に古く 墨書銘によって
南北朝時代の永和2年(1376)の建立であることが判明した

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仏殿
三重塔
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欅の丸窓
山門

岡山県総社市上林 真言宗御室派 日照山 備中国分寺
奈良時代に聖武天皇の詔によって建立された備中国・国分寺の後継寺院である
寺伝によれば 戦国時代の16世紀末(天正年間)に廃寺となっていた国分寺を備中高松城主の清水宗治が再興した
しかし再び衰退し 後の江戸時代中期の18世紀初め(宝永年間)に再建されたと伝わる
寺のシンボルとなる五重塔は高さが34.315mあり 創建時の七重塔(推定高さ50m)を南北朝時代に焼失した後
文政4年(1821)に再建を開始し 約25年の歳月を経て完成したものである
なお創建時の七重塔跡は現在も残されている

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岡山県岡山市北区吉備津 吉備津神社
吉備津地区は備前国の西方にあって 吉備中山の北西麓・備中との境に位置する 古くは真金(まかね)と呼ばれ
『古今和歌集』の中で「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の音のさやけさ」と歌われたことに由来している
「真金吹く」とは たたら製鉄の意味で この地が砂鉄の産地であり製鉄が盛んであったことを窺わせている

明治の初頭に西国街道の宿場であった板倉村(板倉宿)と合併し賀陽郡真金村となった
明治33年(1900)4月 賀陽郡と下道郡が統合されて吉備郡が発足し 昭和に入ってまもなく真金町となった
昭和35年(1960)4月 吉備郡高松町に吸収合併され吉備郡高松町吉備津に改称した
昭和46年(1971)1月 吉備郡高松町が岡山市へ編入合併され 吉備津は北区に属する市内域となった

吉備津神社の主祭神である大吉備津彦が 温羅(うら)という鬼を討ちその首を神社の釜の下に封じたとされる
この伝承が「桃太郎」のモチーフになったといわれるが 温羅は渡来した「たたら製鉄」の族長や祖先として
古くは吉備津神社に祀られた祭神であり 後にヤマト王権の支配下で吉備津彦に入れ替わったという説もある

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昭和47年3月20日 岡山県児島郡下津井町(倉敷市下津井)
前日に倉敷川畔を散策し児島唐琴町の国民宿舎王子が岳に投宿 翌日は下津井電鉄児島駅から鷲羽山駅まで
小さな軽便鉄道の電車に乗って移動 鷲羽山駅から下津井駅まで再び電車で移動する

下津井
現在は 陸続きの半島となった児島の西南部 瀬戸内海に突き出た岬にある「下津井蛸」が名産の古い港町
岬の東端には 昭和63年(1988)4月に完成した瀬戸大橋が見渡せる鷲羽山があり 観光地となっている

沖合に塩飽諸島を抱え 風待ち・潮待ちの天然の良港として奈良時代や平安時代の文献に記されている
近世には 北前船の寄港地として また金比羅詣での渡し船で賑わい 廻船問屋や遊廓・旅籠が軒を並べていた
江戸末期に下津井と呼ばれるようになる前は「長浜」と言い 下津井・吹上・田ノ浦・大畠の四浦(村)があり
四ヶ浦とも総称されていた 下津井の名は「吉備児島の下の津」が語源で最も下に位置する港の意味である

明治22年(1889)に下津井・吹上の2村で児島郡下津井村に 田之浦・大畠の2村で長浜村が新設された
その後それぞれの村が町制を施行し 明治40年(1907)に両町が合併して児島郡下津井町が成立した
昭和23年(1948)下津井・味野・児島・琴浦の4町と本荘村が合併して児島市(こじまし)を新設
昭和47年(1972)倉敷市に吸収合併された 明治43年(1910)の宇高連絡船就航後も
丸亀港との間で旅客船が運行されていたが昭和40年代には運行を停止し 瀬戸大橋開通後は完全に漁港となった

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鷲羽山から見る馬瀬と櫃石島
鷲羽山から塩飽諸島
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下津井四ヶ浦の内 田之浦・吹上・下津井
鷲羽山からの展望
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下津井祇園神社から東側 鷲羽山
祇園神社から下津井
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16世紀末築城 下津井城址の石垣
王子が岳で記念撮影
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真蛸(まだこ)よりもかなり小さい飯蛸(いいだこ) 味は真蛸よりも格段に美味い
左右の第二腕と第三腕の付け根に各一箇所金色の輪紋があることから 下津井では「金の輪だこ」と呼ぶらしい

昭和47年(1972)3月20日 下津井電鉄線 下津井駅
明治43年(1910)下津井軽便鉄道期成同盟会を結成 下津井より国鉄宇野線茶屋町駅に至る軽便鉄道の
旅客・貨物営業許可申請を行い免許を取得 明治44年(1911)下津井軽便鉄道会社設立
大正2年(1913)に国鉄茶屋町駅−味野町駅(児島駅)間14.5kmを開通させた
大正3年(1914)に味野町駅−下津井駅間の6.5kmを延伸開業し国鉄茶屋町駅−下津井駅間21.0kmが全通した
軌間は762mmのナローゲージで全線単線であった 昭和24年(1949)に全線を電化し名称を下津井電鉄に変更
鷲羽山への観光客の増加もあり昭和30年代に全盛期を迎えたが 岡山まで新幹線が開通した1970年代以降は
乗換の不便さから利用客が急減し 昭和47年(1972)4月1日 茶屋町駅−児島駅間を廃止
残る児島−下津井間は バス事業などの利益補填により存続を図った

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偶然にも茶屋町駅−児島駅間廃止の10日前に訪れ 復路は大阪まで通しで買えた切符

昭和63年(1988)に瀬戸大橋が開通すると観光客がまたまた激減し 児島−岡山間のドル箱バス路線の乗客も減少
利益補填もかなわず鉄道経営を断念し 平成3年(1991)1月1日残る児島−下津井駅間が廃止された

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