昭和40年代の神戸と播州路

大阪から神戸へは 山手から順に 阪急神戸線・国鉄東海道本線・阪神電車の三通りの交通機関があり
ともに出発地は国鉄大阪駅のある梅田界隈である 競合する路線ではあるが 熾烈な利用客の争奪戦はなく
平和的に共存していたように思われる 阪急沿線は山手の高級住宅街を通るため「品が良い」とか
阪神沿線は 浜側を通るため庶民的だとか言われていたが 住宅地の拡大とともに
そのような偏見は失われつつある 国鉄は京都大阪間の複線化によって新快速が走り利便性では優れていた

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昭和40年(1965)4月 第二阪神国道 芦屋付近
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昭和40年 芦屋川と芦屋カトリック教会
昭和40年 芦屋市平田町

昭和46年(1971)7月 兵庫県神戸港
昭和38年(1963)世界初のパイプ構造で 高さ108mの神戸ポートタワーが竣工 日本初のライトアップ建造物
昭和40年(1965)フェリーターミナルの兵庫第3突堤竣工
昭和45年(1970)国際航路用のポートターミナルと神戸大橋が完成 昭和47年(1972)六甲アイランド着工
昭和49年(1974)GHQ(連合国最高司令官総司令部)の完全撤収により第6突堤返還 神戸港の戦後が終わる

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昭和46年(1971)7月 神戸ポートタワー


昭和47年(1972)10月 新港突堤

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昭和47年(1972)2月・10月 兵庫県西宮市
有名な「酒どころ」である 灘五郷とは 神戸市の西郷・御影郷・魚崎郷と西宮市の宮郷・今津郷を指す
六甲山麓の伏流水「宮水」と「六甲おろし」の寒風が 寒造りの良い酒を育んだ

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昭和47年(1972)2月 兵庫県西宮市社家町 えびす宮総本社 西宮神社 奉納薦樽
主祭神 西宮大神(蛭子命) 中世期に人形繰りの芸能集団であった西宮傀儡師が 夷信仰を全国に広げ
流通・商業の発展とともに 海運漁業の神だけではなく 商売の神としても信仰されるようになった
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浜町一帯には 白鹿の辰馬本家酒造をはじめ 明治時代から続く木造の醸造蔵が多く存在した
しかし「阪神淡路大震災」によって ほぼ全ての建物が倒壊してしまった

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仕込みの木製大樽も 写真撮影から約半世紀を経ており
ほぼ消滅している

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昭和47年(1972)10月 神戸市中央区北野町 異人館街

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昭和43年(1968)9月8日 摩耶山ハイキング

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布引の滝
摩耶山遊園地 摩耶山から神戸の町を展望

昭和39年(1964) 須磨浦公園
須磨ベルトコンベア
高度成長時代 ポートアイランド埋立用の採土と山間部の土地開発の統合を図り またダンプカーの運搬による
騒音公害問題を避けるため ベルトコンベアーによって海浜部まで土砂を運搬し 埋立地まで専用船で運ぶ方式が
採用された 2005年のコンベアー停止まで 約3億2千万立方mの土砂を運んだ 廃止時の総延長距離は
約14.5kmあった 2010年にポートアイランド第二期工事が竣工し 約 8.33平方キロメートルの人工島と
山間部には 広大な須磨ニュータウンが開発された キャッチコピーは「山、海へ行く」であった

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須磨浦ロープウェイ
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須磨浦海岸と須磨ベルトコンベア
須磨寺公園 堂谷池

昭和46年(1971)11月 丹波篠山で松茸狩り
高度成長期の末期とはいえ 松茸がこれほど採れていたことは事実である 2020年現在では
国際自然保護連合(IUCN)が絶滅危惧種に指定するほど減少した
大きな原因は マツクイムシによる松の減少だが 松林の伐採や落ち葉の採取が行われなくなり
土壌の富栄養化によって松茸の生育環境が破壊された他 近年の温暖化など様々な要因が考えられている

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昭和47年(1972)5月 兵庫県丹波篠山市 篠山城下
慶長14年(1609)に畿内・山陽・山陰・四国の15カ国の大名普請によって 西国諸大名のおさえとして
盆地の中央に篠山城が築かれた 歴代譜代大名が藩主を努めたが 財政は苦しく庶民の生活も困窮していた
そのため 多くの農民が農閑期となる冬場に酒造りの杜氏として伊丹や池田・灘へ出稼ぎに出た
これが後に「丹波杜氏」と言われる技術集団へと発展し 酒の寒造りに貢献した
丹波篠山「デカンショ節」の デカンショとは出稼ぎのことで これを歌いながら酒造りに励んだとされる
篠山は 江戸時代まで丹波国の中心および 播磨や石見・因幡などと京を結ぶ道筋に当る交通の要衝として栄え
故に京との繋がりが深く 町並みや祭りなどにその影響を色濃く残してきた
昭和47年(1972)当時は 兵庫県多紀郡篠山町であった

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昭和40年(1965)11月 姫路城
南北朝時代に 北朝方の赤松貞範によって砦が築かれたのが始まりとされ その後 小寺氏の家臣であった
黒田重隆・職隆父子によって築城された 重隆は黒田孝高(官兵衛)の祖父 職隆は父である
戦国時代の後期には秀吉が城代となり 本格的な城郭に拡張された 関ヶ原の戦い後に姫路藩が立藩され
池田輝政が初代城主となり今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された 明治初期に陸軍省の管理下に入り
一時期は民間に払い下げとなったが 権利が放棄され国有に戻った経緯がある
その後は兵舎などが建てられ屋敷などが撤去されたが 名古屋城とともに保存が決まり明治の大修理が行われた
昭和10年(1935)からは 既存の建物を全て解体修理する「昭和の大修理」が始められたが 太平洋戦争で中断
姫路空襲による焼失の危機を免れ 昭和39年(1964)に漸く竣工した 撮影は「昭和の大修理」の翌年である

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未整備の「姫路城三の丸広場」 昭和40年(1965)11月撮影
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昭和49年(1974)4月 桜咲く姫路城

昭和47年(1972)9月 醤油の里 播州龍野
姫路城から西へ17.5km 揖保川左岸に拓けた城下町である 鎌倉時代は 赤松氏の城下であったが
戦国時代を経て江戸時代初頭には姫路藩領となった 元和3年(1617)姫路藩主の池田利隆が33歳で没したが
嗣男の幸隆が幼少であったため鳥取藩に転封され 姫路藩領は姫路藩・明石藩・赤穂藩・龍野藩・平福藩
山崎藩と鵤(いかるが)藩・林田藩に分割された 龍野藩には 譜代の本多政朝が5万石で入封した
政朝は龍野城を鶏籠山(けいろうざん)の上から山麓に移し城下町を整備した 
政朝は寛永4年(1627年)に宗家である姫路藩を嗣ぎ 龍野藩には縁者である小笠原長次が入封したが
早くも寛永9年(1632)には豊前中津藩に転封となった 以降は幕府領編入と大名の転封を繰り返したが
寛文12年(1672)に脇坂安政が信濃飯田藩から転封され 以後は脇坂家の支配が幕末まで続いた
江戸時代に入り赤穂の塩を使った醤油醸造が盛んになった また薄口醤油が開発され特産品となって今に至る

龍野は 素麺の産地でもあり兵庫県手延素麺協同組合の「揖保乃糸」は全国的に知れ渡るようになった

姫新線の本竜野駅に降り立つと 童謡の「赤とんぼ」のメロディーが流れる
これは曲の作詞を行った作家・三木露風の故郷が龍野であることに因む 明治22年(1889)6月23日に誕生し
龍野中学校(県立龍野高等学校)で一年学んだ後 中退して上京した
「赤とんぼ」は 大正10年(1921)に作詩発表され 昭和2年(1927)に音楽家の山田耕筰が曲をつけた

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心字池に建つ茶室・聚遠亭 脇坂氏上屋敷跡は鶏籠山の西麓にあり 現在は周辺を含め龍野公園となっている
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兵庫県たつの市御津町 室津
金ヶ崎と藻振ノ鼻に囲まれた室津湾の内 さらに藻振ノ鼻と弁天が鼻にかこまれた東側の奥に位置することから
『播磨国風土記』に「コノ泊、風ヲ防グコト室ノゴトシ 故ニ因リテ名ヲナス」と記されるほどの
三方を山に囲まれた天然の良港で 古来より「室の泊」と呼ばれていた
奈良時代に馬関から難波に至る海道のうち 摂播五泊の一つとして整備され「室津千軒」と呼ばれるほど栄えた

江戸時代には 讃岐との海路が栄え また参勤交代の西国大名の殆どが室津港に上陸してから陸路を進んだため
本陣が6軒も建つ最大級の宿場となった しかし明治に入ると参勤交代の制度が無くなり
その上 鉄道や道路が龍野から相生へ抜ける内陸部に敷かれたため急速に衰退し 鄙びた漁港となった

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国土地理院空撮画像 1.金ヶ崎 2.藻振ノ鼻 3.赤松鼻 4.明神山岬 5.弁天ヶ鼻 6.室津 7.大浦
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