大分県竹田市大字会々字鏡  若宮井路鏡水路橋

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若宮井路の歴史
明治08年(1875) 伊東俊次郎が自らの財産をなげうって井路開鑿のための測量を始める
明治23年(1890) 俊次郎は完成した計画を地区の人々に説明するが相手にしてもらえなかった
明治24年(1891) 俊次郎は井路造成の夢が実現しないまま 享年69歳で逝去する
明治26年(1893) 日照りが続いて作物ができなかった 人々は俊次郎の計画を思い出した
明治31年(1898) 井路造成の機運が盛り上がり「若宮井路普通水利組合」が設立される
明治33年(1900) 若宮井路の工事に着手 毎日千人以上が働いていたと伝えられている
明治34年(1901) 若宮井路完成 通水開始
大正11年(1922) 井路の水を利用して電気をおこす (上井田第一発電所:昭和20年まで稼働)
昭和50年(1975) 約5億円 10年間をかけて井路を大改修する
俊次郎は地域住民の豊かな生活を実現させるためには水路開鑿が必要であると考えて
15年の歳月をかけ測量を行い若宮井路の計画図を作りました 計画図作成には多くの金がかかり
俊次郎は先祖伝来の財産をすべて失い 借金までして作り上げたのです
計画図をもとに 資金調達に奔走したり 地区の人々に疎水開鑿の必要性を説いてまわったのですが
相手にしてもらえず明治24年に亡くなってしまいました
俊次郎は死ぬ間際までも若宮井路の必要性を訴えていたそうです
俊次郎の作った計画図面は現在も大切に保存されています

隣接する竹田市の稲葉川から取水され 10km以上離れた受益地「あさじ地区」は
平坦部の少ない山間地域で耕地は狭小で急峻な地形に棚田状に広がり分散して存在しています
このような地形から 水田農業経営規模は零細であり 「水稲」と「肉用牛」「椎茸」等の複合経営が
主体となっています 近年 農業経営の悪化や高齢化の進行・荒廃地の拡大・集落機能の低下など
たくさんの課題を抱えています この地域の用排水路の多くは明治末期から大正年間にかけて
造成されたもので 施設延長が長く条件の悪い場所にあるので
地区の関係者は維持管理に非常に苦労しています 若宮井路の受益地も耕作放棄地が年々増大し
今後の維持管理が非常に気掛かりです
総延長約20km 関係農家300戸 関係水田面積100ha