大分県佐伯市宇目大字千束1060-1 椎茸栽培の元祖・源兵衛翁像

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碑文
今を去る三百数十年前の寛文年間、豊後の佐伯藩千恕の浦(現津久見市)の百姓源兵衛は、出稼ぎのため
宇目郷葛葉(現宇目町字長渕区)で 炭焼きをしていたが、炭木の残り木に生えた椎茸からヒントを得て研究を重ねた結果
人工栽培に成功した。 その後、茸山杣頭として岡藩(竹田中川候)に取り立てられ、指導奨励のため一生を盡したもので、
今日の椎茸栽培の礎を築いた元祖といわれております。
このように椎茸は源兵衛翁により宇目町で始めて発見され、ここを起源として近隣の村々へ普及され、
今や全国に広がる繁栄をもたらした発祥地として本町の名は高く評価されることでしょう。
ここに椎茸産業の尚一層の発展を祈念して、椎茸栽培の元祖源兵衛翁の功績を永く後世にたたえると共に、
本町がこの発祥地として次の世代に伝承されるよう、碑文としてここに銘記いたします。
昭和五十二年十一月吉日 宇目町

佐伯市役所 宇目振興局前の銅像は 日本で初めて椎茸の人口栽培を始めたと伝わる 豊後国佐伯藩の源兵衛である
約380年前の寛文の頃 若く元気盛りの源兵衛は 移り住んだ宇目郷葛葉の森で 来る日も来る日も家業の
炭焼きに立働いていた ところが 炭焼き源兵衛から茸師(なばし)源兵衛への転機が ある日突然訪れた
彼が椎茸の人工栽培を決意したのは 炭焼窯近くの草むらに放置した炭焼用の残り榾(ほだ)に
椎茸が自生しているのを発見したときである 以後 あれこれと試行錯誤の研究を重ね
原木は檜(なら)・櫟(くぬぎ)などが適していることや 榾に鉈目(なため)を入れると椎茸が発生しやすいことなど
現代の椎茸栽培農家必須の基本原理を見出すに至ったのである
現代のように「バイオテクノロジー」など思いもよらなかった時代に これ程までの研究成果を収め得たのは
源兵衛翁の鋭い観察力・深い洞察力・たゆまざる忍耐力の賜であることは言うまでもない
以来 津久見地域を中心とした多くの人々が椎茸栽培に携わった
また 県内外の椎茸原木があり且つ栽培に適した地方へ出かけて椎茸栽培をした
椎茸の人工栽培はその後も試行錯誤を加え漸く20世紀に確立されたが 永い間 鉈目に植菌する方法が取られていた
昭和18年(1943)森喜作が考案した「くさび型木片にシイタケ菌を純粋培養した種駒による栽培」によって
種駒方式の人工栽培技術が確立され 第二次大戦後に普及し始めた
その後高度成長期にエンジンチェーンソーや椎茸ドリルなどが採用され 合理化・省力化が図られて
飛躍的に生産量が増加した 現在クヌギの原木を使うが その他の「どんぐりの木」でも栽培はできる
また 菌床栽培法も考案され 隣国中国では多くがこの菌床栽培方法で生産を行っている
椎茸は気候による成長度合いの違いから 肉厚で笠が開ききっていない冬磨iどんこ)が良いとされ
特に笠の表面に亀裂模様のある「花冬磨vが珍重されている その他 薄手でかさが開いている香信(こうしん)
両者の中間的存在の香磨iこうこ)などがある また 季節により寒磨E春磨E藤磨E梅雨磨E秋魔ニも呼ばれる
椎茸を一般的に「茸(ナバ)」とよぶ 「ナバ」とはきのこを総称した言葉で 特に大分ではしいたけのことを指す
古くは「日葡辞書」(1603~1604年長崎で発行されたポルトガル語辞典)に載っている
昔 大分ではしいたけ生産者を経験的技術者として茸師(なばし)と尊称し 他地域では「豊後なば師」と呼ばれた
「豊後なば山唄」は 源兵衛翁の事績を物語風にうたいあげたものである 「ヨイキタドウカイ」などの囃し部分は
「豊後の茸山師」たちが、椎茸栽培の指導に出向いた先々で歌い広めた「ボタオロシ唄」の一節である
乾燥椎茸では大分県が国内生産量の約40%を占め全国一の生産量を誇り 生椎茸では徳島県が日本一の生産高を誇る
大分県の気候は変化に富み 内陸型・準日本海型・山地型・南海型などに分けられ
また 地形も標高0mから約1800mの高山まで変化に富み 県内に広く分布する常緑広葉樹の暖帯林から
ブナやミズナラの温帯林地帯は椎茸菌糸が原木内に伸長し「子実体」が生長するのに適していると言われている
また 大分県の山間部は雑多な「きのこ」が自生する「きのこの宝庫」でもある 大分では以前から椎茸の原木に使われる
クヌギ林の造成に力を入れてきた 現在では 県内に47,000haのクヌギ林があり全国一のクヌギ原木を有する
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佐伯市役所 宇目振興局(旧宇目町役場)は 形も椎茸を表している

たたら製鉄と椎茸

奈良時代・平城京の昔より天然の椎茸は 高温多湿の気候で森林資源が多い日本から中国への輸出特産品であった
今でも英語・フランス語・オランダ語では 日本語の「シイタケ」で表音され呼ばれている
特に乾燥した椎茸はグルタミン酸やグアニル酸が多く含まれ 仏門における精進料理には
動物性のアミノ酸に代わる「ダシ」として欠かせないものである
また日光に当て干すことによってビタミンD2の含有量も増えることから 漢方では香蕈(こうしん)という生薬となり
中国や日本では貴重な高級品として扱われてきた
しかし本来 古代の中国で採取されていた椎茸が なぜ日本からの輸入に頼ることになったのか
それは 大陸の樹木が採り尽くされ再生しなかったことが大きな要因なのであろうと思われ
樹木を採り尽くした者たちは 製鉄に従事する「製鉄集団・たたら衆」であったと考えられる
日本の新石器時代(縄文期)である紀元前1100年頃には中国大陸で鉄の出現を見る 古代から近世初めに至るまで
東アジアの製鉄は 花崗岩に含まれる砂鉄を原料とし 木炭を使い精錬する方法がとられていた
江戸時代の「たたら製鉄」においても 鉄1200貫を得るのに木炭4000貫を使い 膨大な森林を消費していた
低温乾燥気候の大陸や朝鮮半島では森林の再生が遅く 多くの照葉樹林帯が製鉄により失われてしまった
やがて五世紀後半の古墳時代から「たたら衆」は照葉樹林を求めて日本へと移り 山陰安来地方において製鉄を始めた
「たたら」による製鉄は良質の玉鋼(たまはがね)を生み 鋼鉄も中国への輸出品となっていく
生産豊富な鋼鉄は日本刀を始め農機具・大工道具や包丁などに加工され 日本の中世・近世産業の発展に寄与していった
現在でもYSS鋼(安来はがね)として世界に名をはせ ジレットのカミソリ刃も安来鋼で作られていると聞く

曹洞宗の開祖・道元と椎茸

鎌倉時代のこと やがては曹洞宗の開祖となる道元は修業のため 23歳の若さで九州博多から中国宋へと旅立った
貞応2年(1223)宋に入国し 浙江省・寧波(ニンポー)の港で 訪れてきた一人の老僧と出会う
老僧は阿育山で典坐(禅寺で修行する僧たちの炊事係)を勤めていて
「日本からの船が着いたと聞き干し椎茸を求めに来た」と言った
道元は 「あなたのような老僧が炊事などしなくても良いのでは」と言葉を返したが
老僧は 「あなたは修行のことを何も解っていない」と道元を厳しくたしなめたと伝わっている
しかし この老典坐との対話と導きによって 道元の宗教生活の中で一大転機を迎えることになったと云われている
禅により悟りを開くとされる曹洞宗では 今も 作務といって坐禅以上に日常の作業を大切にする教えがある
道元は 自著「典坐教訓」で この生活即仏法主義はこの老僧から教わったと著わしている
もし 日本で椎茸が採れなかったら 後に道元禅師と呼ばれることもなく 違った歴史を歩んでいたかも知れない
同じ話は司馬遼太郎著「空海の風景」にもあるが 道元の著書から引用した逸話だと思われる