福岡県福岡市博多区  板付遺跡

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板付遺跡
旧石器時代から弥生まで続く板付遺跡には 佐賀県唐津市の菜畑遺跡と共に最古の水稲耕作跡がある
また 福岡県粕屋町の江辻遺跡に次ぐ日本でも最初期の環濠集落でもある
昭和25年(1950)在野の考古学研究者である中原志外顕氏が 縄文晩期の夜臼式土器と弥生前期の板付式土器を同時に採集し
最古の弥生時代の遺跡である可能性が浮上した その後4年間にわたり行われた発掘調査で 断面V字形の環濠や貯蔵穴及び
竪穴住居などが発掘され 板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し
日本最古の環濠集落であることが確実となった
また 炭化米や籾圧痕の付いた土器などが出土したことで  稲作農耕の存在が確認された
昭和45年(1970)以降は 板付団地の建設工事に伴い福岡市教育委員会による発掘調査が行われ
昭和51年(1976)に国の史跡に指定された 昭和53年(1978)には  弥生前期の地層より下部の縄文晩期末の地層から
大区画の水田跡と木製農機具・石包丁なども出土し  用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認された
水田の一区画は推定約400平方メートルで  イネの花粉分析から畑作による陸稲栽培も推定された
このことから 水稲による稲作が 旧来の説による弥生時代初頭よりも溯ることが明らかとなったのである

ジャポニカ種のイネについて
イネ科イネ属の植物は 22種が現在確認されており その内アジアイネとアフリカイネが栽培種で残る20種が野生イネである
アフリカイネは 現在西アフリカで局地的に栽培されているに過ぎず
通常は世界的に広まっているアジアイネを狭義的に「栽培イネ」と指している
アジアイネにもまた 比較的耐冷性の高いジャポニカ種と耐冷性の低いインディカ種の2系統の種が存在し
この2種の交配雑種の中間的品種も多く存在する またジャポニカ種にも温帯型と熱帯型が存在する
日本国内には イネの祖先となるべき野生種が存在した痕跡がなく 日本国外で栽培種となったイネとその栽培技術が
栽培する集団の移動により日本へ伝播したと考えられている
その他 イネは亜種や近隣種が広くまた多く存在し 予期せぬ雑種交配が起きてしまうことがある
古来より日本の農家では 畦を含む耕作地周辺の草刈りを頻繁に行うことでこれを防止してきた経緯がある

稲作の伝来
日本及び中国・朝鮮で栽培されている温帯ジャポニカ種には DNA解析による遺伝子配列でRM1-A型〜H型まで8種類の型があり
中国には全ての型が存在している その内<RM1-B型>が最も多く<RM1-A型>がそれに続く
朝鮮半島には<RM1-B型>は存在せず 残る7種が存在している
日本には<RM1-A型>・<RM1-B型>・<RM1-C型>の3種が存在し その内最も多い<RM1-B型>が
稲作が最初に伝来したとされる西日本を中心に発見されている
また日本の温帯ジャポニカ種は 他の地域に比べ多様性を喪失しており 渡来したイネが極少数であったことを表している
このことから 現在では「一握りの籾を携え丸木舟でやって来た人たち」を想像し考察することが出来るのである
岡山県彦崎貝塚遺跡にある縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールが大量に見つかり
焼畑耕作による稲の栽培が確認されていることから
陸稲の伝来そのものは縄文早期である可能性が高くなったが この縄文期のイネは熱帯ジャポニカ種であった
一方 現在の「稲作の中心」を成す温帯ジャポニカ種による水稲栽培は 約7000〜8000年前に揚子江の中下流域に始まり
九州北部への伝播は 約3000年前とされている
イネのDNA解析からも解るように 朝鮮半島を経ず揚子江の下流域から 直接九州北部地方に人と共に伝来したと思われる
歴史的に見て「イネの水稲作」の伝来は画期的なものであった 縄文期の人口推移は気候の変動に大きく左右され
縄文晩期には推定8万人程度まで減少したと思われるが 水稲栽培が始まる弥生期以降のおおまかな人口推移は
戦乱に明け暮れ戦禍にまみれた戦国時代を除けば増加の一途を辿ってきたと言える
これは 日本人が主食としてきた「一粒万倍」と賞される「米」のおかげかも知れない
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水稲耕作地跡
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灌漑施設
環濠集落ジオラマ
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全体図
集落跡入り口
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環濠
竪穴式住居
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住居骨組み
竪穴