福岡県うきは市  袋野水道と三春原分水のてんびん石

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袋野水道と袋野堰は大石水道開設8年後の寛文12年(1672)10月に起工し
豊後と筑後の国境にある獺之瀬(うそのせ)より 断崖の巌層を苦心の末約2km堀削し隧道を貫通し通水を試みた
しかし 極めて少ない水量しか得ることが出来なかった為  更にこの国境の激流に堰を築く必要が生じた
久留米藩士中村観濤にして「殆ど人力の及ぶところにあらず」と賞賛せしめたこの一大工事は
他の筑後川三堰とは異なり藩直轄事業ではなく  大庄屋田代弥衛門重栄(しげよし)・又佐衛門重仍(しげより)父子が
私財を投じて建設したものである  重栄は72歳で没したが その偉業に農民の尊敬は深く
袋野の地に田栄神社として現在も祀られている
夜明ダム完成により ダムより約500m上流の堰は水没し 現在では堰の全容を見ることはできないが
隧道と袋野用水は改修され現在も 山春・大石・隈上地域に豊かな水田をもたらしている
分水施設は当初からの石がそのまま残され 面積に応じて七つの水路に分けられている
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夜明トレーニングセンター艇庫の前に姿を現した袋野堰 2017年(平成29年)7月13日 国土地理院による空中写真
2017年夏の豪雨災害復旧工事のため夜明ダムの貯水を全て放流したので 63年ぶりに嘗ての川底が露出した

−太郎良松美著『夜明け関町の沿革あれこれ』なつかしき物語 その三・筑後川より抜粋−
光岡の三郎丸で花月川をかかえ、石井の発電所の機械を動かし、電気をおこした水を抱きとめ、
川はゆるやかな流れとなり、川崎と長谷を渡し舟でつなぎ、すぐに、おとなしい瀬となり大肥川の水をかかえ、
鏡の如き水面をして、杷木山の渡し舟を浮かべた。渡し場より200m下った所に、
川幅の3分の2の広さに石を敷き詰めた堤防(袋野堰)があり、ここより筑後平野をうるおしていた取水ロがあった。
このため、上流側は水位も上がり流れもゆつたりとしていたが、
残りの3分の1(今、杷木山の艇庫のある所)は激流で、ここは筏師の難所でもあった。
杉丸太の、筏師が死者狂いで竿をあやつり、なんとか離脱していったのを手に汗して眺めたことがあった。

ダム竣工後初めてのことで 筑後軌道跡の道床石垣も全容が解る 手前は旧袋野堰の「舟通し」とされているが
上記掲載の手記からすれば 舟は右岸側を通ったとされるので「舟通し」説は怪しくなってくるのだが?