2026.01.06 福岡県行橋市大字大谷 馬ヶ岳 標高 216m
東西に長く頂が二つあり 馬の背中に例えてこの名がある 平安初期の天慶5年(942)後に清和源氏の祖とされた
源経基によって山上に城が築かれ馬ヶ岳城と呼ばれた その後 橘公頼が城主となったが 仁平元年(1151)に
九州流罪されていた源為朝の攻撃を受け 橘氏に代わり草野氏が城主となったが 以降は戦国時代に至るまで
出城・砦として攻防戦が繰り広げられた 天正6年(1578)に豊前長野氏が入城し居を構えた
天正15年(1586)豊臣秀吉の九州征伐で長野氏が服従し 馬ケ城は秀吉の本陣となった
九州平定後の天正15年(1587)7月 秀吉から豊前国の6郡12万石が与えられた黒田孝高が馬ケ岳城に入ったが
城下経営に有利な中津に築城を開始 翌年初頭には中津城が完成 中津城を居城とし馬ヶ岳城は支城となった
慶長5年(1600)細川氏が新たな豊前国領主となり 慶長7年(1602年)には小倉城に藩庁を移した
慶長20年(1615)6月 一国一城令によって馬ケ岳城は廃城となった
東西にある二つの頂は 東の標高208.6mが二の丸跡 西の216mの頂きが本丸跡で 三角点は二の丸にある
今年の干支が午歳ということで 正月前から馬ヶ岳の登山動画がやたらアップされる
それなら登ってみようかと 野次馬根性丸出しで松の内に来てみた 感想は「魅力ある低山」に違いなし


馬ヶ岳には 土塁・堀切・畝状竪堀群などの山城の遺構が今も残る 西側の峰を本丸跡 東側の峰を
二ノ丸跡と呼び 二ノ丸から北に下る尾根には 約700mにわたる土塁や 50本以上の畝状竪堀群が残る
山頂だけではなく山麓部分にも土塁や竪堀・横堀などの防御施設が築かれているのが馬ヶ岳城の特徴である

馬ヶ岳城跡の土塁と畝状竪堀群
馬ヶ岳城は、豊前地方の重要拠点として、攻防の舞台となってきた。 九州平定に際して、
戦国時代の天正15年(1587)、豊臣秀吉は、小倉城を経て馬ヶ岳城に滞在し、当城を拠点とした。
馬ヶ岳城の北側山麓から中腹部分には、高さ2~3m、全長500m以上の長大な「土塁」50本以上からなる
多くの竪堀群で構成された「畝状竪堀群」が築かれている。
「土塁」と「畝状竪堀群」のセットは、この豊臣秀吉御着座に際して増築された防衛施設と考えられる。
北部九州における「山城」から「平城」への城郭構造の変遷を知る上で重要な遺構である。





「貫神」とあるのは 平尾台貫山にある芝津神社(貫山権現)上宮に祀られる神のことである
神仏習合による貫山権現は 白山権現を祀ったもので十一面観音菩薩を本地仏としていた
明治の神仏分離令以降 イザナギ・イザナミの仲裁神である菊理媛神(くくりひめのかみ)を祭神とし
総本宮である白山比咩神社に祀る 芝津神社の現・祭神は 伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱である


祭神は景行天皇・稲日太郎姫・大碓命・小碓命(日本武尊)の四柱 安産祈願の神社として有名

市指定文化財 馬ヶ岳城跡 指定種別:史跡 指定年月日:平成25年11月1日
馬ヶ岳城は京都平野を一望する標高216mの馬ヶ岳とその山麓に築かれた山城です。
この城の歴史が史料からたどれるのは、応永12年(1405)からです。
豊臣秀吉による九州平定までの戦乱の時代、豊前の支配を目指す大友氏、大内氏、毛利氏などが
馬ヶ岳城をめぐり攻防を繰り返しました。
九州攻めが始まった天正14年(1586)、馬ヶ岳城主だった長野三郎左衛門は秀吉に服属します。
翌年、遠征軍を率いて九州に上陸した秀吉は3月29日にこの城に入りました。
九州が平定された、天正15年7月、豊前六郡を与えられた黒田孝高(よしたか・旧名官兵衛 後の如水)は、
翌年中津城に移るまでの間、馬ヶ岳城を居城として領内の抵抗勢力を平定していきました。
慶長5年(1600)黒田氏は筑前へ国替えとなり、馬ヶ岳城は城としての役割を終えました。
馬ヶ岳の山頂一帯には地形を平坦に整えた曲輪があり、西の峰が本丸跡、東の峰が二ノ丸跡とされています。
敵の侵入路となる尾根筋は堀切で守られ、本丸跡には竪堀の跡もみられます。 また中腹から山麓にかけても、
土塁や横堀や畝状竪堀(うねじょうたてぼり)などの遺構が残っています。
本丸跡には、この城に在城したと伝えられる新田氏(義基・義氏・義高)の表忠碑が昭和3年に建てられました。
平成26年 行橋市教育委員会




福岡県行橋市大谷1726 小烏神社(こがらすじんじゃ)
祭神は鴨建津見命・彦太忍信命・足仲彦命(仲哀天皇)・誉田別命(応神天皇)・神功皇后・日本武尊







