2026.03.05 大阪府富田林市富田林町 寺内町(じないまち)散歩

近世の町割りを残す 寺内町
周辺よりも一段高い東西約400m・南北約350m・面積約13.3haの楕円形台地上に 東西に6本・南北に7本の路地で
区画された町で 周辺低地との境目には幅の広い土居が設けられ 斜面の一部に竹藪を残している
南側の石川から見ると台地状の地勢を伺い知ることができる 整然とした街路の両側には 河内風の白壁の土蔵や
格子造りの民家が連なり 歴史的な街並みを今に残す 町の区画は六筋七町と呼ばれる 六筋とは南北に走る路で
東・亀ヶ坂・城之門・富・市場・西の六通りを指し 七町は 土居と東西に走る7本の路によって区画された地で
北から壱里山・富山・北会所・南会所・堺・御坊・林の七町がある
現在も多くの町屋が残り 平成9年(1997)10月に大阪府内唯一の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された

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宝暦3年癸酉(1753)10月 富田林村絵図

『興正寺御門跡兼帯所由緒書』によれば 富田林寺内町は 戦国時代末期の永禄3年(1560)本願寺一家衆興正寺の
第16世・証秀が 石川左岸の河岸段丘上の「富田の芝」と呼ばれる約2万坪の荒地を百貫文で入手し
「中野・新堂・毛人谷・山中田」四ヶ村の庄屋八人衆の協力を得て荒れ地を拓き 興正寺別院御堂を建立した
また 寺院を中核に町割を行い畑地・屋敷地を整備し町を開発し 地名を富田林と改めたことに始まるとされる

富田林は要塞化され 八人衆を年寄役とし自治制を敷いた 織田信長と石山本願寺による合戦時には中立を守り
信長から「寺内之儀、不可有別条」と記された朱印状の交付を得て平穏を保ったが
天正12年(1584)に豊臣秀吉の蔵入地となり完全な自治制は途絶えた 続く江戸時代も天領となり南河内の
中心的在郷町として栄え酒造業も盛んであった 明治を迎えるまで日常的な政務には自治制が貫かれ
幕末期には 19名の大組衆による自治が行われた

廃藩置県後 河内県・堺県・五條県などの管轄を経て 明治13年(1880)に改めて行政区画の石川郡が発足
明治14年(1881)に漸く大阪府の管轄となった 明治16年(1883)石川郡役所が富田林村の興正寺別院に開設
明治22年(1889) 富田林・毛人谷(えびたに)の2村が合併し石川郡富田林村が発足
明治29年(1896)南河内郡が発足して石川郡が廃止となる 同年8月 富田林村が町制施行して富田林町となる
昭和17年(1942)富田林町に新堂・喜志・大伴・川西・錦郡・彼方の6村が合併
昭和25年(1950)富田林町が市制施行して富田林市となった

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富田林寺内町かいわいマップ 裏面掲載店舗一覧
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国土地理院 空中写真
P.富田林市営東駐車場 1.寺内町センター 2.じないまち交流館 3.じないまち展望広場
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河岸段丘の様子が解る石川右岸から見る Google Street View の写真
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13:54 寺内町センターの鬼瓦コレクション
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東高野街道
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城之門筋
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葛原家住宅
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興正寺別院 令和の大修復
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富田林御坊 興正寺別院山門
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路地から東に見える金剛葛城山地の岩橋山(658.5m) 山の向こうは奈良の飛鳥
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NTTの鉄塔とPLの塔
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14:38

寺内町の散策を切り上げ 九州へ帰る 自宅まで約700km 中国道新郷PAで車中泊 新郷まで270km・約3時間

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