2010.08.19  高野山

平安初期の僧・空海(774-835 一般的に呼ばれる弘法大師は「おくりな」である 俗名は佐伯 真魚)が
弘仁7年(816)道場として高野山を朝廷より下賜される 翌年 泰範や実恵ら弟子を高野山に派遣
弘仁10年(819)春 七里四方に結界を結び 伽藍建立に着手した
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奥の院御廟橋より中は聖域として写真撮影はできない
空海は「死」=「無」である以上 死に際して亡骸を祀ってはならないと言ったといわれる
宗教家=哲学者として当然のことだが 残された弟子達には感情的にも到底実現できなかったのであろう
故に高野山奥の院霊廟には現在も空海が生きながら禅定を続けているとされ
今でも維那と呼ばれる仕侍僧が 衣服と二時の食事を給仕している
一方 真済(800-860 空海の弟子・24歳という若さで阿闍梨となる)が著わした『空海僧都伝』によれば
空海の死因は病死であり 他書『続日本後紀』では遺体は荼毘に付されたとある しかし没後100年頃に
入定したとする文献が現れ 後の世では一般的に空海は肉身を留めて入定していると信じられている
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西門院の美しい三門
壇上伽藍 御影堂
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壇上伽藍 西塔
壇上伽藍 孔雀堂
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壇上伽藍 孔雀堂
大門
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