2016.03.15 長洲萩の散歩 萩今昔


地名の由来は 崩壊地形を表す古称「崖:ハケ」が訛ったという説があり
「ツバキ」も崩壊地形を表す言葉とされている 崖を表すその他の古語は「まま」「はば」「のげ」などがある
その他 椿という古郷名があり この「つ」が抜けて「はぎ」となったという説や
植物の「萩」そのものが由来となる説もある
鎌倉時代に石見吉賀郡(鹿足郡)の地頭として赴任した吉見氏が津和野に館(城)を築き萩を領地とした
戦国時代には大内氏に属し その後は毛利氏傘下となった 指月山には津和野城の出丸が築かれていた
関ヶ原の戦い後 慶長13年(1608)周防国・長門国の2ヶ国に減封となった毛利輝元が
日本海に張り出した指月山の麓に萩城を築き 文久3年(1863)に山口へ藩庁が移されるまで
約260年の間長州藩36万石の城下町として発展した 明治維新胎動の地として
また 日本近代化始まりの地として今も語られることが多いが 歴史的事実として納得しがたい面もある
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萩の反射炉
江戸時代後期の19世紀中頃には 日本沿岸海域に諸外国の船舶が出没し沿岸防御の近代化を図るため
優れた性能を持つ鉄製の洋式砲が必要とされた しかし従来の精錬炉では純度の高い大量の銑鉄を得ることが出来ず
洋式砲の製造は不可能であった 佐賀藩では嘉永3年(1850)11月 築地に西洋式反射炉1基を完成させたが
実用に叶う砲身の鋳造は 嘉永5年(1852)5月であった その後 嘉永4年(1851)に2号炉
嘉永5年(1852)に3・4号炉が増設された 同年6月には全4基を稼働させて36ポンド砲を鋳造した
次いで 島原藩領の飛び地豊後国宇佐郡安心院佐田に民間実業家賀来惟熊により反射炉が建設され
安政2年(1855)から慶応2年(1866)まで稼働していた その後 幕府直轄の反射炉として安政4年(1857)に
伊豆の天領韮山の代官江川英龍が佐賀藩からの技術支援を受けて炉を築造した
同年 水戸藩・鳥取藩・薩摩藩が実用的反射炉を完成させている
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遅れをとった長洲藩では 安政2年(1855)7月に 佐賀藩へ藩士を派遣したが見学を拒否されてしまった
同年8月 再度藩士を佐賀藩に派遣し その折 藩発明の砲架・旋風台の模型を持参させ交渉にあたらせた
その結果 反射炉の見学を許可され 佐賀藩・築地反射炉のスケッチ図面を作成して持ち帰ることができた
同年11月には反射炉の構築に着手した 長州藩の記録によれば 安政3年(1856)に
鉄製大砲の鋳造に取り組み始めた試験炉の操業記録がある しかし 従来の説では 萩反射炉の完成は
安政5年(1858)とされてきたが 本格的な操業記録が無いことから
この反射炉は安政3年(1856)に築造された試験炉であり 実用炉は築造されなかった説が有力視されている
長州藩では 過激な攘夷思想により引き起こした文久3年(1863)と翌年の 英仏蘭米の連合艦隊との
馬関戦争(下関戦争)において壊滅的打撃を受け 以後は列強国に対する武力での攘夷政策を放棄し
藩独力による軍備軍制の近代化をあきらめ 海外から新知識や技術を積極的に導入する方針に切り替え
以後は英国に接近していくこととなった 馬関戦争に於ける賠償は 戦後長州藩が事実と異なる
「幕命に従ったのみ」と主張したため アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する300万ドルもの
巨額の賠償金は徳川幕府のみが負うこととなった 後に 明治新政府が当てにしていた江戸城御金蔵が
空っぽであったという遠因を 長州藩自ら作ってしまった馬鹿げた失政であった
同時期 すでに反射炉が普及していたヨーロッパでは 生産性の高い転炉に置き換わっているため
反射炉自体は 日本での歴史的評価のように重要視されてはいない
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恵美須ヶ鼻造船所跡
嘉永6年(1853)幕府は 安政の改革の一環として各藩に対する大船建造禁止令を撤回すると共に
浦賀警備に当たっていた長州藩に対して大船の建造を要請した 安政3年(1856)当時の藩主毛利敬親が
洋式軍艦の建造を決定しロシア海軍将校のプチャーチンが地元の船大工を使い
国内で唯一西洋式木造帆船を建造していた伊豆半島の戸田村へ 洋式造船技術習得のため
船大工の棟梁尾崎小右衛門を派遣した その後 戸田村で建造に携わっていた高崎伝蔵ら技術者を招聘し
安政3年(1856)恵美須ヶ鼻に造船所を建設した 同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」が
万延元年(1860)には2隻目の西洋式帆船「庚申丸」が進水した 庚申丸の建造技術は丙辰丸とは違い
幕府が設立した長崎海軍伝習所のオランダ人教官に教わった技術が用いられた
城下町と城跡を散策する
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ミカンとトロ箱
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垣根の中の河津サクラ
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堀内浜町通り
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空き地に立派な門だけが残る
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加賀梅鉢紋の瓦と彫り物
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瓦葺き土塀と白木蓮
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堀内浜町通り
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瓦葺き土塀と藪椿
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堀内後町通り 波多野医院前
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堀内浜町通り 周布家長屋門
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堀内後町通り 旧毛利家別邸表門
萩城趾(指月城)指月公園
関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将に就いたことで 家康より周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が
広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604)に着工し 完成したのは慶長13年(1608)である
指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と 山頂にある山城(詰丸)で構成されている
明治6年(1873)に発布された廃城令により 翌・明治7年に全ての建物が破壊され 石垣や堀のみが現存する
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二の丸南門(大手門)の石垣
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城内の萩焼窯元
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指月山と天守台
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天守閣は2層2階の入母屋造の基部に3層3階の望楼を載せた構造で北側に付櫓を接続した複合式の縄張りとなっており
5層5階の建築高さは約21mあった 外壁は白漆喰の総塗籠で窓は銅板を貼った突き上げ戸を備える
明和5年(1768)の修理では赤瓦に葺きかえられた記録が残る 指月山山麓の天守は城下町からは見えなかった
右写真は 明治の始め頃撮影された 在りし日の天守閣
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花江茶亭 13代藩主毛利敬親の別邸花江御殿の茶室「自在庵」を明治22年(1889)頃に指月公園内に移築
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「私は字が読めない」
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毛利家の重臣・梨羽家の別邸茶室(移築)
藩校・明倫館遺構 万歳橋(移築)
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楓橋 明治40年(1907)12月架橋
岡崎矢倉石垣(左)と天守台
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西ノ浜と大瀬鼻
平安橋
この橋は 萩城三ノ丸の北・中・平安古(ひやこ)の各惣門の内「平安古ノ総門」前の外堀に架けられ
城下町から三の丸への通路の一つであった 慶安5年(1652)の萩城下町絵図には木橋として描かれているが
城下の新堀川に架かっている石橋がいずれも明和年間(1764〜71)に構築されているところから
同時期に石造りに架け替えられたものと思われる 橋の材質は安山岩で造られており 吊り桁・定着桁を備えた
ゲルバー桁橋の構造を持った無橋脚の珍しい橋である 橋桁6.04m、幅3.95m、堀底からの高さ2.5mである
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