2015.11.05 山陰石見の旅 益田市

ますだ歴史浪漫街道 <ますだ歴史浪漫街道マップ>
鎌倉から安土・桃山まで400年の歴史遺産を活かして。島根県と山口県の県境に位置する益田市益田地区は、
鎌倉時代から南北朝、室町、戦国、安土・桃山時代の約400年間もの長きにわたってこの地を治めてきた
豪族益田氏の本拠地でした。中世の城下町の町割りや由緒ある寺社が数多く残っています。
益田氏は益田川や日本海を利用した海洋交易も盛んに行い、萩の沖にある見島や博多にも
拠点を持っていたと言われ、それらを記した益田家の膨大な武家文書は全国的にも類を見ない貴重な資料として、
解読・研究が進められています。七尾公園の堀割と益田川を掘として築かれたのが「益田氏城館跡」の山城
「七尾城」です。城跡からは石州瓦の家並みや日本海が一望できます。
町の中でひときわ目を引くのは、暁音寺の山門です。天文12年(1543)に創建、
その後この地に移ったと言われています。当時はこの立派な山門と鐘楼が道にせり出し、
鍵形に曲がった道は「鍵曲がり」と呼ばれたそうです。 益田川の対岸には、政治の拠点であり、
居館であった「三宅御土居跡」があります。南北朝時代から400年もの間使われ、米倉や井戸、鍛冶場などの跡も
発見されています。益田には雪舟の造った庭園が2つもあります。一つは時宗の古刹「萬福寺」です。
本堂は国の重要文化財で、その端正な造りは、石組みの美しい雪舟庭園と見事にマッチしています。
もう一つが、七尾城の大手門を移築したという大きな総門のある「医光寺」です。
急斜面を活かした大胆な配置の雪舟庭園(国史跡・名勝)は、室町時代の庭園様式を今に伝えています。
時代は下って、幕末にも益田は歴史の舞台に登場します。関所のあった扇原には、
慶応2年(1866)に大村益次郎率いる長州軍とただ一人で戦った潰田藩の「岸静江」の碑があり、
山陰道の当時の面影を伝える古道が木漏れ日の差す林の中に続いています。
夢街道ルネサンス認定地区
夢街道ルネサンスは、歴史や文化を今に伝える中国地方の街道を「夢街道ルネサンス認定地区」として
認定しています。中国地方の豊かな歴史・文化・自然を生かし、地域が主体となって個性ある地域づくりや
連携・交流を進め、地域の活性化を図ります。地域づくりとともに、目的地に向かって移動するだけでない
”楽しみながら巡る”新しい「街道文化」の創出を目指します。
平成16年度認定 / 島根県益田市 / 益田歴史を活かしたまちづくりの会
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午後4時 七尾城址のある七尾山を見上げるが時間が無いので登城は次回に持ち越し

旧若林医院 昭和初期の建築物
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浄土宗智恩院末寺 五更山 暁音寺
天文12年(1543)に創建され 後に現在地に移転したと伝わる 水害等により古文書などが喪失され、
由緒については不明な点が多い、一説には天正6年(1578)僧・在誉により、本尊を阿弥陀如来とし創建とある。
二代目住職・縁誉の時代に、創建当初の寺地を嫌った縁誉によって現在の場所に移転された。
なお、移転にあたって縁誉は、慶長6年(1601)当国大森銀山奉行として赴いてきた大久保長安に、
増野甲斐守屋敷跡を寺地にすることの許可を得たという。移転にあたって先ず仏像だけをそこに安置し、
本堂などの再建移転については江戸時代の宝暦年間にまで下るとされている。
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暁音寺の鍵曲がり

妙義寺と旧山陰道の石橋
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石橋と旧山陰道
曹洞宗 万歳山 妙義禅寺 本尊は釈迦牟尼仏
創建は鎌倉時代の文永元年(1264)と弘安5年(1282)の二つの説が存在する 元は臨済宗であったが
その後 六世130年を経た室町時代・応永の始めに 益田秀兼(兼家)が再建し菩提寺とし曹洞宗に転宗した
後再び廃れたが 天文・弘治年間に益田藤兼が七尾城の大修理に併せ再興したといわれている
江戸時代に入りこの地方の寺院を総括する録所を務めた
長門の大寧寺は本寺にあたりこの関係で明治維新の石州口の戦いでは長州藩の本陣と野戦病院が置かれた
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本堂と大銀杏の樹
益田の多田温泉で入浴し今日の泊まりは 「道の駅・シルクウェイにちはら」
明日は 長門峡を散策し紅葉をめでる(歳時記参照)
11月6日 AM 8:13 津和野
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国道9号線から見る津和野城址 天空の城は竹田城だけではない
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