2015.08.13  島根県松江市美保関町・美保関散歩

島根半島の東端近く南に開けた湾内にある美保関は 古くから海上交通の要所 また風待ちの港として栄えた
朝鮮半島や大陸との交易の拠点で 出雲のたたら製鉄による鉄の輸出港として繁栄し足利将軍の直轄領となる
江戸時代には北前船の寄港地・風待ちの湊として繁栄し 一日千隻もの船が出入りしたといわれている
宿屋を兼ねた多くの廻船問屋が軒を並べ 荷車の往来ため 海岸から切り出された青石を道に敷き詰めた
明治以降は境港の発展と共に商港から漁港へと変化したが 多くの文人達が訪れた往時の繁栄を
今に伝える町並みは 未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選ばれている
img
境水道大橋
img
男女岩(めおといわ)の女岩
img
男女岩(めおといわ)の女岩と男岩
美保関港
imgimg
弁天波止場の常夜燈は 灯台の役割を果たす燈籠として 天保13年(1842)に建てられた
その後明治3年(1870)に再建され 風化による老巧化のため
平成23年(2011)に来待石で再建された 右の写真は明治40年の撮影である
img
img
img
img
img
イカ漁の漁船
美保関神社は 全国にある「えびす宮」の総本宮である
祭神は「古事記」や「日本書記」に記された 出雲の「国譲り神話」に登場する事代主神
大国主神と神屋楯比売(カムヤタテヒメ)との間に生まれた 高天原の神々から国譲りを迫られた大国主は
三保ヶ崎で魚釣りをしている息子の事代主が応えると言った 高天原の建御雷(タケミカヅチ)が
保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると 事代主は「承知した」と答え
船を踏み傾け 手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった
もう一人の息子である建御名方神も建御雷神に従うと 大国主は国譲りを承諾し 事代主が先頭に立てば
私の180人の子供たちも事代主に従い天津神に背かないだろうと言ったとされる
事代主の逆手打は 争いを避ける または 争いを終える際に行う「手打ち」「手締め」の起源とされる
国譲り神話において釣りをしていたことから 戎神と同一視され 海の神・五穀豊穣商売繁盛の神として
信仰されている 七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは
国譲り神話におけるこのエピソードによるものと云われる
img
img img
imgimg
img
おかげの井戸
その昔、長い旱魃が続いた為にどの井戸も干上がってしまい、民衆は暮らしに困窮していました。
そこで、時の宮司が三保大明神に雨乞いをしたところ、お告げがあり、この場所を掘ってみたところ、
こんこんと水が湧き出てきて、人々は難を逃れたといわれています。
あまりのありがたさに、「おかげの井戸」と名付けられました。堀削には当地区の廻船問屋はもちろんのこと、
廻船の用水として欠かせなかった諸国の北前船の船頭や船主も浄財を寄進しました。そのときの記録が
美保神社に残されています。平成19年には、美保関灯台とともに文化庁の登録有形文化財になりました。

青石畳通り
img
周辺の海岸で採れる 通称「青石」と呼ばれる緑色凝灰岩を敷き詰めた 美保神社から仏谷寺に至る路地
img
imgimg
創業300年の宿と廃墟となった宿が並ぶ 観光立国を目指すなら 観光地に点在する廃墟を
どうにかしなくてはならない ただし 解体して更地にするのは解決したことにはならない
img
imgimg
imgimg
左上の写真は「中さえ(や)」と呼ばれる海女道(あまのみち)で 本通りから海岸へ抜ける路地
今では海岸が埋め立てられ表側となり 青石畳み通りは裏道となってしまった
右上は高浜虚子が訪れた際に詠まれた俳句 「烏賊の味 忘れで帰る 美保関」
そのほか小泉八雲・島崎藤村・与謝野鉄幹晶子夫妻など多くの文人が訪れる地であった
img
img

仏谷寺前の石畳
imgimg
imgimg

仏谷寺
img
仏谷寺の百日紅(サルスベリ)
img
仏谷寺山門と石畳道
仏谷寺はその昔 後醍醐天皇の隠岐配流の際 風待ちの行在所となった古寺である
江戸時代 「八百屋お七」の処刑後 「お七」が思いを寄せた寺の小姓「吉三」が
「お七」の冥福を祈る巡礼に出 この仏谷寺で70歳の生涯を閉じたと伝わっている
imgimg
imgimg
img
img
出雲方言の「だんだん」は「ありがとう」の意味で 南海日日新聞掲載の記事には以下の通り記されている
愛媛県八幡浜地方のみならず、県内各地に「ありがとう」を表す方言として「だんだん」がある。
現在では日常用いられることはないが、生まれが昭和20年代以前であれば多くの人が知る方言である。
「ありがとう」の意で「だんだん」を方言として用いる地域は西日本各地にある。
列挙してみると、鳥取県西伯郡、島根県、山口県大島、高知県幡多郡、福岡県博多、熊本県、大分県直入郡、
宮崎県高千穂などである。愛媛県内各地で聞くことのできる「だんだん」は、
もともとは「いろいろと」の意味であって、「だんだん(いろいろと)ありがとう」の
「ありがとう」が省略されて「だんだん」だけで感謝を表す言葉となってしまったものと思われる。
そもそも、「だんだんありがとう」の表現は、『日本国語大辞典』によると、天明年間(1781〜89)頃から
京都の遊里にはじまった挨拶語ということである。つまり、「だんだん」は、江戸時代中期に京都に派生した
挨拶語「だんだんありがとう」が全国に伝播し、日本海側、中国、四国、九州において方言として定着したが、
後に、「ありがとう」が省略されて「だんだん」のみで感謝の意を示す言葉になったと言えるのである。
ところが、「ありがとう」の意味ではなく、元の「いろいろ、重ね重ね」といった意味で「だんだん」が
用いられる地域もある。山形県米沢市では「いろいろご馳走に・・」を「だんだんご馳走に・・」といい、
同様の方言は、新潟県中頸城郡、富山県、石川県、滋賀県彦根、島根県、高知県檮原、熊本県、宮崎県
長崎県壱岐
などに見られる。これらの地域では感謝語としても「だんだんありがとう」と省略なく言う。
なお、派生元の京都をはじめとする近畿地方では、方言として「だんだん」を使うところはほとんどなく、
廃れてしまっており、言葉の分布も、近畿地方の空白域をはさんで東西に同心円状に広がっている。
京都などの上方で使われた言葉が周囲に伝播したが、上方では古い言葉は使われなくなり、
そのかわりに上方から離れた地域に、かつて上方で使用された言葉が方言として残る。
「だんだん」は、こういった事例の一つなのである。
以上 2000年12月7日 南海日日新聞掲載記事から編集

美保関灯台
明治31年(1898)11月8日初点灯 フランス人技師の設計により 片江の石工・寺本常太郎によって
地蔵崎の馬着山に建設された山陰最古の石造灯台で当時は第1等灯台であった
 当初は地蔵崎灯台と呼ばれたが 昭和10年(1935)に美保関燈台と改名された
「日本の灯台50選」に選ばれ 平成10年(1998)には「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」に選ばれた
日本を代表する灯台のひとつで その歴史・文化財的価値からAランクの保存灯台に指定され
平成19年(2007)灯台として初の登録有形文化財に登録された
灯台のほか 旧吏員退息所主屋・倉庫・便所・石塀も登録有形文化財に登録されている
その後 平成21年(2009)2月6日 近代化産業遺産にも選定される
img
imgimg
img
灯台ビュッフェは閉まっていた
島根県七類港にある隠岐航路のフェリーターミナル 「メテオプラザ」
img
img
アミューズメント施設が併設され 平成4年(1992)に落下した隕石を展示するミュージアムを常設している
その他 温海水プール 及び サウナ・浴場がある
img
img
島根半島・リアス式海岸の外海 玉結湾
TOP