2013.08.13−17 山口県東部車中泊の旅  三田尻塩田記念産業公園

パンフレットより 塩でささえた防長二国 260年にわたりわが国の塩業を支えた三田尻塩田
防府の沿片は、昔から塩焼きが盛んに行われ、中世には、著名な「鞠府塩 」の産地として知られていました。
 近世初期までの塩づくりは、近郷の需要をみたす程度の小規模のものでしたが、元禄12年(1699)三田尻大開作が
築きたてられた。その一部を割いて造成された「古浜」塩田に、入浜式塩田が導入されました。その後、歴代藩主の
保護育成により、「中浜」、「鶴浜」、「人浜]、「江泊浜」、「西浦前ヶ浜」が築かれ、ここにおいて
三田尻六ヶ所浜(三田尻塩田)ができあがりました。三田尻浜の総面積は、約350町歩(350ha)、
塩業者(浜人)201軒、塩の年産30〜36万石に達し、藩による「防長の三白」の一つとして
奨励されたこともあいまって、防長二国の半ばを占めるにいたり、播州赤穂とならぶわが国塩業の
一大中心地となりました。三田尻の塩は、主として山陰、北陸、東北地方に向けて、小田、中関から北前船で
積み出されました。寛政2年(1790)からは、蝦夷地(北海道)御用塩 として幕府に一万石を納めていました。
 明治38年(1905)専売制度が施行されると、塩の主産地であった三田尻には、専売局製塩試験場が設置され、
わが国の製塩技術の発達に大きく寄与しました。戦後、画期的な流下式製塩法が普及するに及んで、塩は
生産過剰となり、昭和34年(1955)塩業整備臨時措置法が制定され、ここにおいて三田尻塩田は、
260年におよぶ輝かしい歴史の幕を閉じました。
瀬戸の海に浜子うたが響いた 入浜式の塩づくり
 入浜式の塩浜は、潮の干満差を利用して海水を自動的に塩浜へ導入する方法で、揚浜式に比べて、労力も少なく、
大規模な生産を可能にしました。入浜式塩田として形が整えられるのは、江戸時代の初めで、瀬戸内海沿岸
10ヶ国を中心に築かれ、昭和30年(1955)ごろまで、日本独特の製塩法として盛んに行われました。
満潮のとき、溝に引き入れられた海水は、毛細管現象によって砂の表面にしみだし、太陽熱と風で水分が蒸発され、
塩分が砂に付着します。この砂を集めて沼井に入れ、上から海水や藻だれを掛けて鹹水をとっていました。
 塩業の経営単位は一軒前(一戸前)といい、約一町五反(1.5ha)の塩田を所有し、年間約2000石生産しました。
これにたずさわる労働者を浜子といい、庄屋、上脇、三番、炊き、釜焚の常雇と、寄せ女、沼井踏などの
臨時雇があり、10人前後の人々で生産していました。塩づくりには、浜子たちの長い間の経験から生まれた
鋭い勘とすぐれた技能が必要でした。塩田は、浜溝によって五区画に分かれ、一区は長さ約216m、
幅約13.5mの広さで、中央に18台の沼井が置かれていました。
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三田尻塩田記念産業公園管理棟
ポーランド岩塩
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塩田と沼井
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枡築らんかん橋 枡築とは区画のこと
大壺(だいつぼ)
大壺は、採鹹(濃い塩水をとる)作業により、一定の濃度に高まった鹹水を貯蔵する装置です。
一般に、地下の水槽は長さ約12m、幅約3.6m、深さ約90cmで赤土と年度で築かれていました。
その上には床をはり道具などを収納し、屋根は茅葺や瓦葺きで、周囲は土壁、あるいは板壁となっていました。
大壺は釜屋の近くに建てられ、竹管によって釜屋の「ひょうたん(桶)」に連結されています。
採鹹の量により助壺も築かれ製塩業にとって大切な施設でありました。
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大壺 鹹水(かんすい)の貯蔵庫
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大壺内部
三田尻式濃縮台 鹹水を流し濃度を高める

濃縮台
大壺や助壺などの屋根を改造し、入浜式塩田で採鹹した鹹水をさらに濃縮するために使用する装置です。
この台は地下の貯水槽と上部の流下盤からなり、流下盤にはゆるやかな傾斜をつけ、アスファルト盤に
小石を敷いています。鹹水を自然に流下させて、太陽熱や風により水分を蒸発させて濃度を高めていくのです。
電力の普及によりポンプを利用して鹹水を汲み上げることになり使用が広まりました。
一定の濃度に高まると竹管によって大壺に送られます。

釜屋
入浜塩田でとれた鹹水(濃い塩水)を煮つめて塩の結晶を得るところです。
三田尻の釜屋は普通、間口・奥行ともに5間(約9m)の方形の建物で、周囲は壁で切り窓が一、二ヵ所
設けられていました。屋根には中央と左右に「ほろ」と呼ぶ水蒸気の排出口がありました。
釜屋の中央には竈を築いて結晶釜を置き、煙道に温目釜を置いていました。釜ははじめ石釜を用いていましたが
しだいに鉄釜になりました。そのほかに、ひょうたん(桶)、ろ過槽、居出場(いだしば)がありました。
これは、昭和初期の釜屋を復元したものです。
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釜屋 鹹水を煮詰め塩の結晶を得る
釜屋煙突と煙道
これは、鹹水(濃い塩水)を煮詰めて製塩する釜屋の煙突で竈と煙道で連結していました。
煙突は、外部を石釜の石で270段ほど積み重ね、内部は自然石を加工したものを漆喰で固めて、
頂上部まで積み上げた二重構造です。煙道の通り奥壁には、灰を出す口が設けてあります。
煙突は高さ12.45m、頂部の周囲4.15m,内径は40〜43cmの楕円形です。この煙突と煙道は、
昭和の初め頃まで越中屋の浜屋で使用していました。対岸の向島(むこうしま)で合同製塩が始まるまでは、
各塩戸に煙突が立っていました。この二本の煙突は往時の面影をしのばせる貴重な遺跡です。
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釜屋の石造煙突 登録夕景文化財
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煙道と煙突基部
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枡築らんかん橋
この橋は入浜塩田が築かれたとき、枡築間の通路として入川にかけられた石橋です。
日本の奇橋の一つに数えられる猿橋(山梨県)をモデルにしたとも言われています。
橋げたの中央部は橋の台より高くなって、満潮時でも橋下を石炭や塩などを運搬する「上荷船」が
航行できるように造られています。昔は、この石橋に欄干が取り付けられていたので「らんかん橋」と呼ばれ、
大浜塩田の入川だけでも九橋もかけられていたといいます。
この橋は、大浜ノ三の枡と四
ノ枡の入川にかけられていたものを移築したものです。
萩往還三田尻起点あたりを散策
国指定史跡「萩往還」関連遺跡 三田尻御舟倉跡
関ケ原の戦(1600年)後、周防・長門の二か国に封じ込められた毛利輝元は、参勤交代や海戦、
平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、現在の下松市に設けました。しかし、萩城との
交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611)三田尻に移しました。城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ
「萩往還」の終点である三田尻御茶屋(英雲荘)からおよそ500メートルの位置にあります。
江戸時代中ごろまでの参勤交代はここから船出していたのです。
御舟倉には、藩主の御座船や軍船が常置されただけでなく、船の建造や修理が出来る設備も整えていました。
また、周辺には水軍の将校や船頭・船大工など関係者の住宅地の町割りが計画的になされ、
三田尻は藩主出入の表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展していました。
しかし、元禄元年(1688)以降、御舟倉周辺の開作(干拓)が次々に完成すると、次第に陸地に囲まれ、
一本の水路が海に通じる唯一のものとなりました。明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が
埋め立てられ、通堀(かよいぼり)とこれに通じる水路の一部にその名残をとどめています。
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御舟倉跡
運河跡
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一馬本店
元は造り酒屋を生業としていたが 明治32年(1899)に毛利藩の備荒貯蓄米倉庫を購入し 味噌・醤油製造業を
はじめた 現在も毛利藩の備荒貯蓄米倉庫は 一馬の工場として現役稼働中である
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国指定史跡 萩往還関連遺跡 三田尻御茶屋旧構内
三田尻御茶屋は、承応3年(1654)二代萩藩主毛利綱広によって建設された藩の公館で、藩主の参勤交代や
領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあてられたものです。現在まで数度の改修が行われ、規模や間取りは
様々な変遷をたどっていますが、県内に残る御茶屋として唯一、区画の明瞭なものです。
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山口県防府市華浦(かほ) 鞠生の松原
鞠生の松原は 高洲の松原と呼ばれていたが 秀吉の重臣・細川幽斎が 天正15年(1587)九州征伐の折
立ち寄ったこの松原で 「まりふの松原」と題して「白銀を敷きたらんようなる白砂に 丈高からぬ浦松の
老い屈まりたるが むらむら生きて・・」と景勝を和歌に詠んだ事からこの地名になったと伝えられる
ここは近世まで三田尻湊の地で 近くには長州藩御船蔵があり 萩往還の始点または終点でもあった
湊に隣接する松原の中に 海運の守護神である宗像女神の市杵嶋姫(いちきしまひめ)を祀った
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鞠生の松原 厳島神社鳥居
鞠生の松原

防府市田島本町  鹽竈神社
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昔は砂浜に面して建立された浜の鳥居
午後2時30分 今回の旅はここまで
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