2012.04.03-06 鳥取・鹿野・湯梨浜・三朝・関金・倉吉 大阪から九州へ山陰路で帰る

4月3日 大阪-中国道佐用IC-平福宿-宮本-大原宿-智頭-鳥取市-鹿野町-関金温泉 湯楽里

智頭往来・平福宿 旧播磨国佐用郡平福村

関ヶ原後の慶長5年(1600)戦功により池田輝政が播磨一国支配で姫路藩が立藩された 翌年 甥の池田由之に
平福郷 2万2千石が分与され 利神城を改修し城下町を整備したのが 今に残る平福宿の町並みである
慶長14年(1609)に利神城は姫路藩の支城となり 元和元年(1615)再び分与による平福藩が立藩されたが
寛永8年(1631)藩主池田輝興の転封により平福藩は廃され 明治まで譜代松井松平家の知行地となった
その後 鳥取藩の本陣が置かれ 智頭往来(因幡街道)有数の宿場町として発展した
<Link:街道と宿場「智頭往来 平福・大原>

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9:00 智頭急行 智頭線 平福駅
智頭急行 智頭線は 山陽本線・上郡駅と因美線・智頭駅を結ぶ第三セクターの鉄道路線である
陰陽連絡路線のひとつとして国鉄智頭線として 日本鉄道建設公団で建設が進められていた路線を引き継ぎ
昭和60年に沿線の鳥取・岡山・兵庫県の合意によって 智頭鉄道株式会社を昭和61年(1986)5月に設立
平成6年(1994)智頭急行株式会社に社名を改め 12月3日に智頭線を開業した
大阪と鳥取を結ぶ特急「スーパーはくと」 岡山と鳥取を結ぶ特急「スーパーいなば」が
同線を経由して運行されることによる収益の向上が 設立の決め手となった
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京橋と佐用川 船着場

山間の流通集積地となって 因幡や美作方面から送られた荷を高瀬舟に積み替え 佐用川の水運を利用して
赤穂まで運んだ 南北1.2kmの区域にある家屋300戸余りの約8割に屋号がつく 船運流通の商人町となり
昭和初期まで 出雲街道・智頭往来および佐用郡の中心地として繁栄したが
近代陸上交通の要となった鉄道の敷設計画もなく 流通量が乏しくなり集積地としての地位を失った

旧街道沿いにある 往時の面影を伝える連子窓や千本格子を持つ古い家並みと
水運で賑わった土蔵や納屋の下から川岸への通路など 山の中の港町ともいえる独自の景観を持ち
川に沿った石垣上の川座敷と土蔵群は 町の歴史的環境保存条例の保存区域指定を受けている


岡山県美作市宮本 宮本武蔵のふるさと

平福を出て 旧因幡街道を北上すると播磨国と美作国の国境である標高353mの釜坂峠に至る
峠を越えると美作国吉野郡宮本村へと下って行く 今では吉川英治の小説により 剣豪・宮本武蔵の
生誕地とされているが 武蔵自身の著書である『五輪書』の冒頭においては生国播磨の生まれと記述している

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9:57 兵庫県佐用郡佐用町延吉 常夜灯のある旧因幡街道 県道161号市場佐用線
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県道240号線の境峠 釜坂峠の東750m
智頭急行 智頭線 宮本武蔵駅ホーム
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駅から宮本武蔵顕彰武蔵武道館を見る 屋根は武蔵作の刀鍔・海鼠透鍔(なまこすかしつば)をモチーフとする

岡山県美作市古町 大原宿

大原宿は かつての美作国吉野郡古町村にあった智頭往来の宿場町で 郡内72ヶ村の内
長尾村・坂根村を合わせ3村を所領する常陸土浦藩の飛地支配を受けていた
大原宿は 北は因幡国境の志戸坂峠 そして南は播磨国境の釜坂峠に挟まれた岡山県北東部の山間にあり
平安時代では 山陰からの後醍醐天皇都上りや 江戸時代においては 鳥取藩参勤交代の道として使われ
智頭往来の中程に位置する宿駅として古くから栄えた交通の要衝であった
平福宿や智頭宿と同様 道の両側に水路があり水が滾々と流れる 江戸時代建築の本陣や脇本陣のほか
重厚な屋敷群が現存して 旧街道の風情を今も色濃く残している
旧宿場町の中心であった大原古町は 岡山県の町並保存地区に指定されている

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10:42 更生橋たもとの三界萬霊碑と元禄2年に建てられた道標 津山道は現在の国道429号に相当する
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ふれあい広場前 北向き撮影
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寛政年間(1789-1801)建築の大原本陣
大原本陣・有元家 御成門
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街道南向き 脇本陣長屋門
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11:25 (有)田中酒造場は唯一の造り酒屋で清酒「武蔵の里」「大原白梅」を醸造する

鳥取市馬場 倉田八幡宮

国指定天然記念物 倉田ハ幡宮社叢
倉田八幡宮社叢は、千代川右岸の下流域に広がる鳥取平野の真中に位置する同宮境内の神社林で、
水田に囲まれた湿度の高いところにあるタブノキを中心とする約1ヘクタールの常緑広葉樹林である。
山陰地方の低地における極相林は常緑広葉樹林(照葉 樹林)であり、
ここのような平坦で湿度の高いところではタブノキ林が多い。こうした平野部では、
人間による耕作地や居住地として開発利用されて、原植生のほとんどは失われているが、
倉田八幡宮の境内であったため、地域住民により神聖な場所として、植生が維持されてきた。
高木層はタブノキが7~8割を占めるが、部分的にスダジイ、ウラジロガシ、ヤマモミジ等の巨木も多い。
亜高木層にはツバキが多いが、より湿度の高いところには、サカキもみられ、ヤブニッケイも少し混じっている。
低木層では、アオキの多いところとヤダケの多いところがある。
樹木はよく茂っており、草本層はあまり繁茂していない。また、社殿周辺のイチョウの巨木、大ギンモクセイは
名木として知られており、クロチクも稀少な存在である。山陰地方平野部の低湿地を代表する自然林の
姿を残す社叢として、学術的に貴重なことから、国の天然記念物に指定されている。

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13:53 八幡宮参道
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神門と本殿

鳥取市上町 鳥取東照宮

寛永9年(1632)それまでの池田宗家光政に替わり 岡山藩池田宗家から独立し松平姓と葵御紋を下賜された
准家門の池田光仲が僅か3歳で鳥取藩主となった 光仲は藩主となって16年目の慶安元年12月(1649)にして
漸く国入りを果たした 東照神君家康の曾孫となる光仲は 幕府より東照宮勧請の許可を得て
慶安3年(1650)に因幡東照宮を造営した 明治7年(1874)の神仏分離令により樗谿(おうちだに)神社に改称
同時に 主祭神の東照大権現(徳川家康)の他 配神として池田忠継・忠雄・光仲を
また明治11年には 最後の藩主である慶徳を合祀した 平成23年(2011年)に鳥取東照宮に改称された
本殿・拝殿・幣殿・唐門の4棟の建造物は、国の重要文化財に指定されている

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14:32 随神門と奥の唐門
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蛍の名所でもある
神門

鳥取県鳥取市鹿野町鹿野 鹿野城下町

鹿野城は 天正8年(1580)の羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際に織田方の陣となり 亀井茲矩が城主となった
関ヶ原の戦いでは東軍に属して加増され 都合3万8千石で鹿野藩が立藩し 鹿野城は近世城郭へと改築され
合わせて城下町の整備も行われた 元和3年(1617)に茲矩の嫡子政矩が津和野藩へ転封され
鹿野藩領は鳥取藩に編入された 正保元年(1644)一国一城令により城郭は破却された

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平成6年から「街なみ環境整備事業」に取り組み その第一歩は石橋を残し側溝を石で整備することから始まった
町屋を残し整備し 景観にそぐわないものは排除または改変する それは基礎の換気口まで及ぶ徹底ぶり
自販機や派手な看板の無い町並みは落ち着きを取り戻し 町全体が癒やしの空間として好印象を与えている

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15:40
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16:00 飯田ノ森の古社 加知弥神社 祭神:彦火火出見命・鵜萱葺不合命・玉依姫命

鳥取県倉吉市関金町関金宿 関金温泉 湯楽里

関金温泉の国民宿舎「グリーンスコーレせきがね」に隣接する簡易宿泊所「湯楽里」は
鉄筋RC造のマンション型湯治宿である 2名3連泊し 総額20.430円 1人1泊当たり 3.405円であった
食材の購入は町内に「Aコープ」と倉吉方面 8.5kmで「まるごう西倉吉店」がある

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2012.04.04 7:40 湯楽里からの眺望 4月でまだ雪が残る蒜山三座と大山

4月4日 湯梨浜町 燕趙園と三朝温泉散歩

鳥取県湯梨浜町引地 一般財団法人鳥取県観光事業団 中国庭園 燕趙園(えんちょうえん)

燕趙園は 友好都市である鳥取県と中国河北省の友好のシンボルとして 平成7年(1995年)に建設された
東郷湖を借景として総面積10,000平方メートルあり 皇家園林方式の中国庭園としては日本最大級である
園内の建物は中国河北省の技師が設計し 中国の材料を使用して 中国河北省の職人が加工し仮組した建物を
一度解体して日本に運び入れ 中国河北省の技師の監督の下で組み立てた
2011年4月から飲食店・売店周辺区域が「道の駅燕趙園」となった

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一覧亭と「ゆアシス東郷龍鳳閣」
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七星橋と迎水坊
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七星橋と一覧亭

鳥取県東伯郡三朝町 三朝温泉

三朝温泉の由来は 今から800年以上も遡る 平安時代の長寛2年(1164) 源義朝の家臣・大久保左馬之祐が
主家の再興祈願のために三徳山へ参る道中で 年老いた白狼に出会い弓で射ようとするが思いとどまり
その場から見逃すことにした その夜のこと妙見大菩薩が大久保佐馬之祐の夢に現れ 白狼を助けてくれたお礼にと
源泉のありかを教え授けたという 以降 病に効くという温泉の湯は村人に伝わり 救いの湯として今に至る
当時の源泉は 今でも公衆浴場の『株湯』として大切に残されてる 三朝温泉の湯は世界でも屈指のラドン温泉である
<Link:三朝温泉観光協会ホームページ

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薬師堂前 杖なし地蔵と薬師の湯
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足湯と飲泉場
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「薬師堂」と足湯のある街角 団体男性客天国の歓楽街は淘汰され「陥落」した
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三朝温泉かじか蛙保存研究会の蛙コレクション
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米原写真館 温の街ギャラリー カメラの館
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旅館「橋津屋」の送迎車 ロンドンタクシー「ビッグベン」
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三朝神社
明治になって 湯村・外谷村・砂原村の各村社を合祀したため 大己貴命(大国主・出雲神)・素盞嗚命
誉田別命(応神天皇・八幡神)・大山祇命・武内宿禰など 祭神の数が多い
三朝湯村の神社は 温泉発見の大久保左馬之祐が厚く崇拝したということから大久保大明神
砂原村の神社は 妙見山正八幡宮と称していた 外谷村の神社は荒神様と呼ばれ素盞嗚命を祀っていたが
素盞嗚命は境内摂社として祀られる 手水所にはラジウム温泉が掛け流しされ飲泉場も兼ねている
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南苑寺 本堂・隠寮・庫裏・山門は国の有形文化財

4月5日 倉吉サイクリング散歩 鉢屋川から玉川へ

鳥取県の中央部に位置し 周囲を温泉地に囲まれた緑豊かな倉吉 歴史は古く古代には伯耆国の中心として栄えた
南北朝時代には 打吹山(ウツブキヤマ)に城が築かれ 城下町 陣屋町として発展した
二度目の倉吉訪問である 今回は鉢屋川から赤瓦白壁の玉川べりまでサイクリング

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国登録有形文化財 旧倉吉町水源地・ポンプ室・量水室 外観見学のみ
倉吉で最初の上水道施設でモダンな擬洋風建築の外観が特徴となっている 昭和7年(1932)から
平成2年(1990)まで現役で稼働していた 開設当時の人々は上水道を理解せず 利用した家庭は百戸もなかった

小川酒造 主屋は国登録有形文化財に指定 外観見学のみ
小川家は江戸時代から酒造業を営む旧家であるが 木造二階建瓦葺の主屋は大正年間の建築と伝わる

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主屋もさることながら 景観的に圧倒されるのは裏手の鉢屋川沿いの趣
酒蔵の白壁と屋根瓦 煉瓦積み壁が水面に映り 木塀に囲まれた離れの庭園と煉瓦の煙突など
風情漂う旧商家の路地裏は必見とされる
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桃林工房前の鉢屋川 前方交差するのは街道の八橋往来
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錦鯉の泳ぐ鉢屋川
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倉吉最古の町屋建築 倉吉淀屋内部
倉吉淀屋前
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赤瓦1号館
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玉川べり・赤瓦1号館の雛飾り
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大正時代建築の醤油仕込み蔵 五重構造の見事な小屋組
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錦鯉の泳ぐ玉川と石橋

鳥取県倉吉市関金町関金宿 関金温泉散歩

開湯伝説については 8世紀から14世紀まで諸説がある中 関金温泉では8世紀初頭の養老年間に行基が
鶴が湯浴みする源泉を発見し 後の平安時代に弘法大師が荒れ果てていた温泉地を整備したとする説が唱えられ
昭和初期の文献においては 行基が発見し 弘法大師が再興し 室町時代に武将の山名小太郎が浴槽を設置したと
記されている 古名として「銀の湯」や「しろがねの湯」がある

江戸時代には 鳥取と山陽を結ぶ備中街道(美作街道)中にあり 関金宿が置かれた

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鳥取県指定保護文化財 鳥飼家住宅 主屋
江戸時代中期建築の庄屋屋敷と考えられており 平成3年(1991)に解体調査の上 大鳥居から移築された
同時に江戸時代中期の姿に復元された 現在は主屋のみであるが 他に米蔵など複数の付属屋があった
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宿坊 地蔵院の「わらべ六地蔵」
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延命茶屋の足湯
共同外湯・元湯「関の湯」
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休憩所 延命茶屋
足湯からちいとのぼったとこに「関の地蔵さん」ちって 昔から親しまれとんなる
国の重要文化財「木造地蔵菩薩半跏像」が安置されとるだぁが ほんに片足を足湯に入れとんなるやうに
見えるだぁが 顔はきびしいけど とても慈愛に満ちとって心穏やかな姿をしとんなるだぁが
足湯は冷え性が良うなったり 心も体もホッとして 疲労回復にええって言われとっだいな
温もったら関の地蔵さんにもお参りして見てごしないよ
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関の湯の管理人さんが作った杉玉 関金温泉では「もてなしのシンボル」としてアチラコチラに
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宿場口の備中街道(美作街道)丁字路に建つ金毘羅灯籠 建立は幕末の文久3年(1863)癸亥 六月吉日
台座に道標 左道は 犬挟峠(いぬばさりとうげ)を越えて蒜山長田(上長田・下永田)へ
中道は 東伯郡琴浦町八橋を経て米子城下へ 右道は倉吉へそれぞれ通じる
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左 作州長田 中 八橋・米子 右 倉吉
(旧)関金町社会福祉センター
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湯ノ関神社
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関金温泉湯楽里から見る夕焼け 翌朝 10:00 チェックアウト 大社駅に寄って帰る 自宅には午後10時着
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