2016.10.25 しまばら散歩

島原武家屋敷と鯉の泳ぐまち
戦国時代はキリシタン大名の有馬晴信が日野江に城を構え この地を治めていたが
慶長17年(1612)に家康の命に依り甲斐国に幽閉され その後切腹に処された
嫡男の直純に対しては家督と所領が安堵されたが 慶長19年(1614)延岡藩に加増の上転封となった
その後天領となったが 元和2年(1616)松倉重政が大和国五条藩より4万石で入封し島原城を築いた
重政は領民に苛酷な政治を敷きキリシタンを厳しく弾圧した 重政の後を継いだ勝家も領民に対し
父以上の残酷な年貢取り立てとキリシタン弾圧を行った また 幕府の歓心を得るために4万石の取立て高を
10万石と過大申告するなどの悪政を貫き 領民にとって 島原はまさに地獄であった
同様に キリシタンへの迫害及び領民の酷使や 過重な年貢負担を強いられていた
唐津藩主寺沢堅高の飛地領・天草諸島の民も同様であり その上飢饉の被害まで加わり
ついに両地領民の怒りが爆発し島原天草で一揆が起こった 寛永14年(1637)ついに天草四郎を総大将とした
反乱軍が組織され「島原の乱」が勃発した 領民の怒りは凄まじく 先代の有馬・小西両家に仕えた浪人や
土着の武士や 松倉配下の武士まで領民側に加担するなどして 松倉氏単独では鎮圧することができなかった
一般的に九州諸侯の記録によれば 反乱の原因を年貢の取りすぎにあると記しているが 
島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず 反乱軍が絆の元としてキリスト教を用いたいたことで
この反乱をキリシタンの暴動と主張し 江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため
圧政に対する土着武士や領民の反乱という側面よりも キリシタンによる反乱という曲解が定着した
寛永14年(1637)11月 幕府は鎮圧軍の総大将として板倉重昌を派遣するが
小身小録の重昌では九州諸侯軍の統制が取れず なおかつ 自ら攻撃の先陣を切った重昌は被弾して戦死した
幕府は改めて老中・松平信綱を大将とし九州諸大名およそ12万を総動員して鎮圧を計った
信綱は原城を兵糧攻めにし 3ヵ月後に漸く反乱軍は鎮圧され天草四郎をはじめとする反乱軍は皆殺しにされた
その数は 推定で3万7千人とされ(27000人という説もある)その内 女・子供は半数を数える
結果的に 国の宝とされる領民の殆どを殺戮してしまうという愚行であったことは否めない
その一方では 領主の松倉勝家も幕府の怒りを買い 苛酷な政治の責任を厳しく問われ
反乱軍の鎮圧後 大名の身分でありながら切腹も許されず斬首刑に処された
天草を支配していた寺沢家は天草領を没収され 失意の堅高は後に自殺し寺沢家は断絶した
その後島原には徳川譜代の高力忠房が遠江国浜松藩より4万石で入封し 乱によって減少した領民数と生産高を
巧みな農業政策や植民奨励政策などによって補い 荒廃した島原地方の復興に尽力した
しかし 後を継いだ隆長は藩体制の確立に焦りが見え 失政が多く 寛文8年(1668)に改易となった
代わって丹波国福知山藩より松平忠房が6万5千石で入封し5代にわたって島原を支配したが
寛延2年(1747)に下野国宇都宮藩の戸田忠盈が7万7千石で入封 松平氏は入替わりで宇都宮へ転封した
戸田氏は2代続いたが 安永3年(1774)に再び宇都宮から松平氏が6万5千石で再び戻り
戸田氏も再度宇都宮へ戻った 以後は明治維新まで松平氏が8代にわたって支配し
明治4年(1871)の廃藩置県において島原藩は島原県となった その後 長崎県に編入され現在に至る
なお 島原半島は気候温暖であるが中央部に火山地帯があり 耕地面積も少なく地味が痩せていて
実際の年貢の収穫高は表高よりも少なかったと言われている
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武家屋敷街の水路 城外で下級武士の住いが集合する町
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篠塚邸
この屋敷の主は代々篠塚順右衛門を名のり 出自は三河の深溝である 扶持米は8石から13石2人扶持を給され
主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた 屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪) である
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篠塚邸 茶の間
島原藩士屋敷図(1200x840pix)

島田邸
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切石積みの塀
中には廃屋もある

島原城跡
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長崎県指定史跡 平成28年2月18日指定
島原城は、島原半島東部に位置し、雲仙普賢岳からのびる低丘陵上に築かれた近世城郭である。
元和4年(1618)に松倉重政が着エし、寛永元年(1624)頃に主要部分が成立したとされる。
中心部は、本丸・ニノ丸・ニノ丸が南北に並ぶ構造で、その北側には家臣団屋敷を取り込んだ外曲輪を構えて
城の外郭線を形成している。敷地全体の規模は、東西約350メートル、南北 約1200メートルで、
平面は長方形を基調としている。島原藩の政庁として存続した後、明治6年(1873)の廃城令で
城地は民間に払い下げられ城の建物は解体された。
中世から続く森岳城跡を踏襲し構築された城郭で、江戸時代に幕府が新規の築城を原則禁止していた中で、
島原城跡は全国でも数少ない新設の城郭であった。その内部構造は極めて特徴があり、大手ロから
本丸に至るまでの複雑な城道や三十基を越える外曲輪の櫓群など、防御を意識した堅固な遺構が残っている。
また、本丸の入りロなどには、桃山時代からの伝統的な様式の巨石石垣が認められる一方、
各曲輪の高石垣には江戸時代前期の先進的技法を見ることができ、築城技術の転換期の様子が良く残っている。
県内の藩庁として機能した五城(島原市島原城・対馬市金石城・平戸市平戸城・五島市石田城・大村市玖島城)
の中では、敷地面積や櫓・門数、建築・石垣の規模の点で最大の城郭である。
指定範囲は、本丸跡、ニノ丸跡、大手ロ跡の一部、外曲輪の屋敷跡(小早川邸)である。
長崎県教育委員会 島原市教育委員会
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昭和39年(1964)復元された天守(歴史資料館)と昭和47年(1972)復元の巽櫓(彫刻家・北村西望記念館)
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昭和35年(1960)に復元された西櫓と現在の入り口
『こころ豊かな時間を過ごせる街』森岳商店街
<森岳商店街公式サイト:http://www.moritake-s.jp/>
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森岳さらくマップ
「さらく」は長崎弁で「歩いてブラブラする」の意味 「さるく」ではなく「さらく」が正しいらしい
この界隈 古い商家や建築物が多いらしいので 今度はゆっくりと「さらくって」みたい
合資会社 猪原金物店 創業は明治10年 茶房&ギャラリー「速魚川(はやめがわ)」併設
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龍の鏝絵
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趣のある店構えです
サンシャイン中央街 湧水の有る商店街 ゆとろぎの湯(520円)とゆとろぎの足湯(24時間・無料)がある
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「ガーデニング」に「つくばい」など 商店街とは思えない癒やしの空間
水頭の井戸
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この辺りは 寛政4年(1792)の島原大変前には波止場水頭といわれ船番所があった所で 今でも水頭という地名で呼ばれている

昭和16年(1941)に地元住民が共同で井戸を掘ったところ 自噴する清冽な水が湧き出た

また 井戸の横にいる亀に年齢の数だけ水を掛けると長生きすると伝わる
しかし 70回近い水掛けは辛い

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浜の城跡公園
浜の城跡・由来記
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湧水庭園 四明荘
島原を代表する水屋敷 庭内には大小3つの池があり 一日1000トンの清水が湧きでる
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「かんざらし」作りが体験できる 湧水館
虹が出た
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観光交流センター 清流亭
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大正12年(1923)建築 森岳「青い理髪館」
延宝3年(1675)築造 時鐘楼
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白土湖
ェ政4年(1792)島原半島の主峰普賢岳の火山活動による眉山の大崩壊とともにてきた湖です。
このときの大地変でこの一帯に地割れが生じ、地下水が噴き出して南北10町(約1km)
東西3〜4町(約3〜400m)の池となり、なお水嵩は増すばかりでした。
藩庁では領内から1万人の人夫を集め、池の水を海に流すために水路を造りましたがその水路が現在の音無川です。
白土湖の広さは約1万平方m、湧水量は日量4万トン、水温16度、水のまち島原を代表する湧水であります。
昭和56年に国土庁から水緑都市モデル地区の指定を受け、昭和60年には環境庁の名水百選に選ばれました。
銀水と浜の川湧水
ここも ェ政4年の眉山大崩壊で海が埋まり そこに水が湧き出したものです
この湧き水を使い 明治時代に生まれたのが 島原名物となった白玉団子の「かんざらし」です
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島原名物「かんざらし」元祖の銀水 本日休業でした
浜の川湧水
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湧水槽
決められた使用場所
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水神様と地蔵
こんこんと湧き出る水
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