2016.08.11-14 久住・高千穂・椎葉・日向・大分の旅

今年の夏は暑く日田市の猛暑日々数は 全国第一位の38日となった 旧盆の間に避暑を兼ね
久住から高千穂・椎葉・日向を廻り大分へ中九州の旅を敢行したが 今年は様子が違った
毎年旧盆の頃には朝晩が涼しくなるのだが ゆく先々で猛暑の連続「暑い旅」となってしまった

2016.08.13 椎葉村から大分県蒲江へ

高千穂神社の駐車場に車を停め 早朝の高千穂峡を散歩して一路椎葉に向かう 出発は午前7時30分となった
椎葉到着午前8時45分 鶴富屋敷の開館は午前9時 少し時間があるので近くを散策する
鶴富屋敷
国指定重要文化財 那須家住宅 指定年月日:昭和31年6月28日
構造:桁行25.09m(88尺8寸) 梁間:8.64m(28尺5寸) 形式:一重寄棟造茅葺東面庇附属
椎葉村の民家は 縁を横一列に設けそれに各部屋を配した 横に長い「並列型」である
これは平地の少ない椎葉において山の斜面を利用するための知恵で この那須家住宅はその代表的なものである
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平面図

間取りは 部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より 神仏を祀る「ござ」
冠婚葬祭などの客間となる一番広い「でい」 夫婦の部屋となる「つぼね」 茶の間の「うちね」の四室が並び
その右端に雑穀を撞く石臼や石造りの竃を配した土間の「どじ」がある
「でい」の長押(なげし)より上座を「おはら」 下座の広縁部分を「したはら」といい 身分の上下で控える
位置が違う封建時代の名残を残す 背面にはすべて戸棚を造りつけにしており 引き戸は欅の一枚板が使われ
長年丹念に磨き上げられ美しい小豆色を醸し出している 築300余年を経た那須家住宅は
民家としては規模が大きく しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち 民家特有の美しさをよく表している
小屋組みはさすを組合せ 屋根は寄棟造りで茅葺きであったが 昭和38年に銅板に葺き替えられた
また 通称を鶴富屋敷といい 平家落人の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられている
日本の民家としては極めて重要なものとして 重要文化財に指定された
現在 那須家32代目当主が経営する旅館となっているが 宿泊は別棟である
料金:一泊2食 観光プラン7000円(税別)〜 ビジネスプラン7000円(税別)〜弁当・洗濯付き
観光プラン1万円以上で 鶴富屋敷で夕食 部屋数:9
椎葉村観光協会公式サイトで案内:http://www.shiibakanko.jp/hl_index.php?act=dt&gid=6
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十根川 椎葉村大字下福良
茅葺屋根の鶴富屋敷
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銅像は那須大八郎と鶴富姫
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客間の「でい」
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長押より左が下座の「したはら」 右が上座の「おはら」
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土間の「どじ」 石造の竃と続きの板の間を「かまのせど」という
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鶴富屋敷から椎葉厳島神社への参道
手水舎 鶴富姫化粧水は奥にある

上椎葉ダム・日向椎葉湖
二級河川の耳川本流最上流部に建設されたダムで 竣工は昭和30年(1955)であった
九州電力が管理を行う発電用ダムで 高さ111.0メートルのアーチ式コンクリートダム
日本で初めてとなる100メートル級の大規模アーチダムで その後の日本の土木技術に多大な影響を与えた
建設開始は昭和25年(1950)から始まったが 同年にポツダム政令による電力事業再編令が発令され
翌年には電力事業が全国九地域の電力会社に分割・民営化された 工事は九州電力に引き継がれ
昭和27年(1952)9月に本体工事を起工 40km離れた延岡市から建設資材を輸送したが 隘路であったことから
搬入搬出は困難を極めた 毎年襲来する台風などによる災害が発生するなど 難工事の連続であったが
漸く昭和30年4月にダムは竣工し 同時に発電所も完成した 総工費130億円 労働者数述べ500万人の
戦後における輝かしい大プロジェクトではあったが 難工事により105名の尊い犠牲者を出してしまった
殉職者への慰霊として 彫刻家富永朝堂の作による仏教・キリスト教・水神の三女神像が建立された
この女神像は 現在も九州電力が供養・保守しており 柵内に入ることは固く禁止されている
アーチダムの技術は上椎葉ダムより始まり その後宮城県の鳴子ダムでは工事の全てを日本人の手で行った
さらにアーチダム技術も進歩しより経済性に優れたドーム型アーチダムが 和歌山県の殿山ダムに初めて採用され
やがて日本のダムの歴史に燦然と輝く大プロジェクト・黒部ダムへとつながっていくことになる
ダムによって形成された人造湖は 小説家・吉川英治氏により「日向椎葉湖」と命名され
平成17年(2005)に 財団法人ダム水源地環境整備センターよりダム湖百選の認定を受けている
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慰霊の三女神像 書は九電初代社長・佐藤篤二郎
日向椎原湖の碑 書は吉川英治
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施工は鹿島建設
堰堤上部は通行可能
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ダムの堰堤を渡り国道265号線に出る 右へ行くと西米良村から小林へ出る道 湯前町や西都市にも
行くことが出来るが全てが険しい山道となる 今回は進路を左にとりダムの堰堤下を通り日向へと向かう
堰堤下のバス停は「針金橋」とある 針金橋とは 昭和40年代初めまで多く存在した鋼線を使った吊橋で
紀州山地の多くが この「針金橋」であったことを思い出した 高度成長期に多くの橋が架け替えられている

大斗の滝(おせりのたき)
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美郷町西郷小原の耳川の支流尾迫川にかかる落差70mの三段滝 別名を「尾迫の滝」ともいう
「大斗の滝」の由来は 酒と旅の歌人「若山牧水」が「大斗」の字をあてたといわれている 「斗」は
酒をくむ柄杓のことで 養老の滝を意識して それを上回る大きな滝という意味から大斗と名づけたとされている
出典:http://nanjaroka.jp/
全部で7段あるようですが 最上部までの遊歩道は地震の影響で通行禁止でした
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<上>下段の滝と中段の滝
<右>中段の滝
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下段の滝々壺 滝壺には龍が住むという伝説がある

若山牧水生家 宮崎県日向市東郷町坪谷3
大正から昭和の初めに活躍した 詩人・歌人の若山牧水は 明治18年(1885)8月24日にこの家で
医師の若山立蔵の長男として生まれた 名は繁(しげる)と名付けられた
坪谷尋常小学校を11歳で卒業し 延岡高等小学校第1学年に入学した
14歳で県立延岡中学校に入学し寄宿舎生活を始め 山崎庚午太郎校長の影響を受け短歌と俳句を始める
18歳のとき 号を「牧水」とした 由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである」と
自身が語っている 牧は母の名「まき」から 水はこの生家の周りにある渓や雨から付けられた
昭和3年(1928)9月17日没 享年43歳
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「牧水生家」という名のバス停
「牧水が愛した坪谷の自然をどうぞ御堪能ください」
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牧水の母校 坪谷小学校
校庭と正門
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東郷町山陰戊(やまげぼ)の「野々崎橋」
明治44年3月架橋(牧水27歳の年)
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美郷町小又吐に至る街道(現在の国道446号)
仲瀬神社鳥居

日豊海岸を蒲江まで
東郷町から日向市を経て延岡市へ 延岡からは国道388号線で北浦へ 途中浦城町の「七ッ島展望台」に寄る
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須怒江湾(すぬえわん)の須美江鼻と黒礁
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須美江海水浴場
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七ッ島
烏帽子礁(手前)と金山鼻・立礁
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烏帽子礁の鼻に七ッ島展望台がある
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横島展望台
北浦から「日本初のふるさと林道線・古江−直海線」を通り横島展望台へ
しかし 樹が生い茂りさほどの展望もなく写真は一枚のみ
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ここで時刻が午後4時30分 今日の車中泊は 新しく出来た「かまえインターパーク」である
曲がりくねった県道の細道をひた走る インターパーク到着が午後5時22分
残念ながら「おんせん県・大分」でも県南には温泉場が少ない
この蒲江には温泉どころか銭湯もないので 今日の入浴は期待できそうにない
インターパークの直売所「海の市」が閉まる午後6時以降は 自分たちの車以外は車中泊も無く静かであった
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