2014.04.25  陶器の町 波佐見を散歩

慶長3年(1598) 文禄・慶長の役(1952−1958年の豊臣秀吉による朝鮮侵略)の戦列に加わった
大村藩主の大村喜前が 朝鮮より李祐慶を頭とする数人の陶工達を連行し 慶長3年(1598)に 波佐見村内に
登り窯を築かせ陶器を作らせたのが始まりである 当初は釉薬を施した土製陶器を焼いていたが
良質の陶石鉱脈を発見後は磁器生産が中心となった 当初は三股郷の陶石を原料としていたため
青磁が主力であったが その後 砥石として広く流通していた天草の石が白磁原料に向いていることが判明し
大量に天草砥石を買い付け 町内全域で磁器生産を行えるようになった 波佐見焼の特徴は 呉須で簡単な
草花文などを描いた白地にくすんだ染付など 平戸藩の御用窯として主に献上品を生産していた
三川内焼とは対照的に 江戸時代から大衆向けの食器を巨大な連房式登窯で多量に生産してきた
染付磁器の生産量は 著名な産地である有田焼をしのぎ日本一であったといわれている 18世紀以降の
江戸時代の遺跡から出土する磁器は その大部分が波佐見焼であると推察されている
当時の波佐見焼を代表するのは 醤油や酒用ボトルとして長崎出島からオランダ・インドネシアなどに向けて
盛んに輸出されていた「コンプラ瓶」と 簡単な草花文などの絵付を施し 磁器は高いという常識を覆し
磁器を初めて庶民の手に広く普及させた「くらわんか碗」である 「くらわんか」の名は 当時・京都・大坂間の
淀川を通う船便の枚方宿あたりで 商人が小舟で三十石船に近づいて「酒食らわんか餅食らわんか」と囃しながら
食べ物を売った「くらわんか舟」 に使われていたことから広く大衆に普及したことに由来する
 この「くらわんか椀」は波佐見焼最大のヒット作と呼ばれ 庶民大衆の食文化を一段と向上させたとされる
今なお 良質な日用雑食器を供給するという姿勢は 変わることのない波佐見焼の伝統となっている
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道路法面にある 小皿による登り窯の壁画と磁器タイルによる窯元案内図
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中尾山 李祐慶(日本名:中野七郎右ェ門)により慶長12年(1607)開窯
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今は使われ無くなった登り窯の煙突 煙では無く草木が出ている

やきもの公園 世界の窯
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ボトルオーブン(昇炎式窯)<別図>
イギリスの代表的な焼き物の産地ストーク・オン・トレントで、18世紀中頃から使用されていた
昇炎式の石炭窯です。窯の外側に徳利を被せたような、レンガの小屋がつくられており、この中で
投炭作業をする珍しい形の窯で、焼き物が工業化された初期の窯です。
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穴窯(横炎式窯)
山の傾斜地を利用して、穴を掘り、窯としたもので、中国、朝鮮半島に見られ、
日本には5世紀頃朝鮮半島から伝わり、13世紀頃まで主に使用されました。
古墳から発掘される須恵器は、この穴窯で焼いたものです。
薪を使用した黄炎式の窯で、還元炎焼成にもなり、 1200度C以上の高温にもなります。
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古代オリエントの窯(昇炎式窯)<別図>
古代エジプトやペルシャなど、オリエントで古くから使用されている円筒形の窯です。
窯の下に焚口があり、木や草などを燃やします。床には炎が通り抜ける多くの穴があいており、
炎は器物の間を通って昇り、排出されます。上の開口部には、壊れた陶片や瓦などをおき、
熱が逃げ過ぎないように適当に調節し、800度Cぐらいで焼成します。
アナトリア、西アフリカ、スペインなどでは、この形式を殆ど変化させずに、現在でも使用されています。
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トルコ キタヒヤの窯(窯)<別図>
トルコの代表的な焼き物の産地キタヒヤで、現在も使用されている円筒形の倒炎式薪窯です。
焚口は下に1ヶ所あり、その一部に釉を作るためのフリット棚があります。
炎が昇るための大きな穴が中心部に1ヶ所だけあり、器やタイルなどの器物は窯壁に沿って棚積みされます。
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赤煉瓦の窯(囲い窯)<別図>
中国の田舎で見られる赤煉瓦を焼く素朴な窯です。粉炭を板状に固めた「煤餅(メーピン)」を、
日干し煉瓦の間に適当に散らして組み入れ円筒状に積み上げ、外側は大きな粘土板で囲い、
上はレンガや土で覆い、下から火をつけてメーピンを燃やし赤煉瓦を焼成します。
トルコ、イラン、ハンガリーなどでは、煉瓦の間に粉炭をまぶしながら角型に積み上げ、
30〜40mもの城壁のようなものがあり、半月以上も燃え続けて大量の煉瓦が少量の燃料で焼かれています。
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磚の窯(昇炎式窯)
中国の「万里の長城」や各地の塔、城壁、寺院などで使われている黒い煉瓦「磚(せん)」を焼く窯です。
石炭を5〜7日ぐらい燃やし続け、約900度Cになったら火をとめて窯を密封し、水を窯の中に注入しつづけて
強還元にし「磚」を造る珍しい窯です。地方によって窯の形式がすこし異なっていますが、
この窯は中華人民共和国天津郊外の窯を移転して復元したものです。
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龍窯(横炎式窯) 別称「蛇窯」<別図>
中国古代の春秋時代(約3000年前)の昔から使用され改良されてきたという、斜面を利用した縦長の窯です。
穴窯のように一室になっていますが、窯の左右や上に薪を投げ入れる穴が数多くあいている細長い窯です。
最初は下の焚口から薪を燃やし、温度が上がるに従って左右の穴から薪を投げ入れ焼成します。
器物の周りで薪が燃えるので熱効率が良く、中国やタイでは50m以上もの龍窯で大きな水瓶などを焼きます。
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景徳鎮の薪窯(横炎式窯)<別図>
中国の景徳鎮で、10世紀頃から使用されている窯です。焚口が1ヶ所の超大型薪窯で、基本的には
穴窯とよく似た横炎式の窯ですが、平地に築かれています。白磁、染付、色釉の器などが、
大量の薪を使って24時間の短い時間で焼成されています。現在も、景徳鎮では少数の窯が使われています。
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角型石炭窯(倒炎式窯) 素焼(ふかせ)窯付き
明治の初めに、ヨーロッパより導入された石炭を焚く倒炎式の窯です。戦後の昭和45年頃(1970)まで、
波佐見で最も多く使用されていた窯で、石炭と薪の混焼がされていました。
昭和の初期(1927頃)までは登り窯と平行して使用され、戦後の復興期には最も活躍した窯で、
1960年頃、重油焼成に改造され、1975年頃にガス窯に変わるまで各地で使用されました。
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上絵窯(昇炎式窯)別称:赤絵窯・錦窯 <別図>
薪による上絵窯は、オリエントの昇炎式窯とよく似ていますが、中窯がマッフル(二重構造)になっていて、
炎が器物に触れずに熱だけが伝わるようになっています。
中国の赤絵(上絵)が、17世紀の中頃に柿右衛門によって日本でも焼かれるようになってから、
現在の電気窯に変わるまでこの形式の窯が使われました。
釉の上に、低火度の絵の具で絵付けをして、700〜800度Cで焼成し焼き付けるものです。
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連房式 登り窯(横炎式窯)<別図>
中国、朝鮮半島を経て16世紀に日本に導入された薪窯です。各室が連なって斜面を登っている連続窯で、
各室では倒炎式的であり、窯全体では横炎式になる熱効率の良い窯です。
波佐見、有田の磁器や、唐津などの陶器もこの形式の登り窯で焼成されました。
昭和の初め頃(1930年)までの長い間、肥前地区の焼き物焼成の主力になった歴史的窯です。

西の原地区を散策
国登録有形文化財 旧波佐見町立中央小学校講堂兼公会堂
昭和12年(1937)波佐見尋常高等小学校の講堂兼公会堂として建てられた 昭和51年(1976)からは
波佐見町立中央小学校講堂兼公会堂となり 平成7年(1995)の小学校新築移転まで
多くの町民に親しまれながら利用されてきた 和洋の要素を取り合わせた玄関ポーチは風格があり
吹き抜けとなった中央部と低い天井からなる内部空間は 教会堂を思わせる落ち着いた雰囲気を持つ
また 音響的にも高い評価を得ている 木造洋館としては九州最大級の規模を誇り 非常に貴重な建築物である
平成22年(2010)1月15日 国の登録有形文化財に登録された
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西の原地区を散策
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ちゃんぽん専門の「有田屋」さん あっさり味です
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窯の残滓で出来た塀
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西の原工房 モンネ・ルギ・ムック
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HANA わくすい
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モンネ・ポルト 国登録有形文化財・長崎県まちづくり景観資産 旧福幸製陶所細工場
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旧国道 西の原商店街
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