2014.04.10  大分県日出町の散歩

大分県速見郡日出町(ひじまち) は 別府・宇佐・杵築の各市に囲まれ 速見郡唯一の町である
また別府湾を囲むように存在する別府市・杵築市と 地形的にも経済や文化においても関係が深い
日出城の下で捕れる「城下かれい」は有名で 5月中旬には「城下かれい祭り」が開催され
リーズナブルな価格で 高級品の「城下かれい」が観光客に振る舞われる
気候は温暖で南側を別府湾に面した町の中心部は 関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)に3万石を与えられた
木下延俊が入封し初代日出藩主となって 慶長7年に城を築いたことから発展し 町並みが形成された
明治以降も大凡の町並みは 城下町を起源とした町割りがもととなっており 城跡や外堀が大きく影響している
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正保城絵図(1644−1648) 豊後国日出城(暘谷城)絵図
国立公文書デジタルアーカイブ/重要文化財国絵図等/正保城絵図/九州(絵図のダウンロードは可能)
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国土地理院空中写真 現在の城内範囲
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観光交流拠点施設「二の丸館(やかた)」
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「城下かれい」の鏝絵
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日出城趾(暘谷城趾 日出町史跡 昭和25年10月17日指定) 堀跡
慶長6年(1601)、日出藩初代藩主木下延俊は入国後直ちに築城にかかり、翌年八月には大方の普請ができ入城した。
城の縄張り(設計)は細川忠興が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手穴生理右衛門が野面積みで築き、
木材は鹿鳴越の大木を用いたといわれる。別名暘谷城(ようこくじょう)と呼ばれ、三代藩主木下俊長が
中国古書『淮南子』(えなんじ)より「日は暘谷から出て咸池に入る」という言葉から引用命名したといわれる。
本丸には三層の天守閣をはじめ、二層の櫓五ヶ所・平櫓が築かれ、これを中心に二の丸・三の丸・外郭と
三重の構えを備え、外郭には武家屋敷や民家を取り入れた。明治7年(1874)、大分県は城内建物を競売に附し
取り壊したが、その一つ隅櫓(鬼門櫓)はそのまま大正10年まで城内にあったが、小学校拡張により移転し
町内仁王地区へと移築され現存していものを、平成20年(2008)に町へ寄付され、町指定の有形文化財として
再び城内へと移築・修理復元された。日出小学校は明治6年に本丸の建物の払い下げをうけ、暘谷小学校が
開設されたのが始まりで、明治20年に小学校令によって暘谷尋常小学校となりその後日出小学校となる。
 本丸下の海岸は俗に「城下海岸」と呼ばれ、眺望絶佳で大分県百景及び別府八景の一つに指定されている。
この海中の真清水が湧く一帯は、「城下かれい」の名で知られるマコガレイの棲息地となっている。
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大サザンカ 暘谷小学校大手門跡
この木は、旧藩士屋敷の日出中学校内に生育している。樹齢は四百年以上に達すると推定されている。
日出藩初代藩主水下延俊が築城し、士族屋敷を設けたのは慶長7年(1602)、この時すでに生育していたか、
あるいは、その際に植えたものかは不明であるが、現在も樹勢は盛んである。
地上1mで数枝の枝が伸び、高さ7.6m、枝張りは東西8m、南北5mである。花は花弁先端部が紅色を帯びている。
サザンカの品種についての記録は、元禄8年(1695)に出版された「花壇地錦抄」が最初であるが、
同書出版の100年前には、すでに園芸品種サザンカが存在していたことを物語るもので、
きわめて価値が高いといわれている。このことから、曰出町では、サザンカを町花として定めている。
県天然記念物 昭和32年3月26日指定
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移築された隅(鬼門)櫓
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鬼門櫓の窓
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二階屋根組
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旧木下家の石垣塀
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木下家の家紋「独楽(胡馬)」
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野面積(穴太積)の石垣 補修工事
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人柱祠
昭和35年、城下海岸遊歩道のエ事中、日出城(暘谷城)の西南端より木棺が発掘された。
棺(早桶)は、岩盤をくりぬいた穴におさめられ、その上に大石が乗せられ石垣の基盤となっていた。
棺の中からは老武士らしき遺体の人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からは甲の金具などが発見された。
大分大学の半田・富来両教授や文化財関係者の調査結果、日出城(暘谷城)築城当時の人柱であろうと
推定された。 日出城(暘谷城)の築城工事は、城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、
また方位上から城の裏鬼門にあたることなどから、人柱を立てたのではないかと考えられている。
棺の出土した地点の石上には人柱詞が祭られており、その昔の哀れさをしのび、
祠に花を飾り香 をたむける人々が後を絶たない。
日出町教育委員会
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軍艦海鷹(かいよう)の碑(写真出典:Wikipedia)
空母海鷹は、大阪商船所属の「あるぜんちな丸」で、南米航路の旅客船であった。
昭和16年、海軍に徴用され、航空母艦に改装された。船団護衛や輸送の任務につき、南方作戦にて活躍した。
また、特攻機の訓練目標艦としての任務にもつき、航空機による特攻隊のみならず、
人間魚雷「回天」の訓練にも使用された。昭和20年7月24日、豊後水道で触雷、翌25日駆逐艦に引かれ
日出の城下海岸に係留着底した。以後、米軍機による空襲が頻繁となり、
動けぬ海鷹は猛烈な攻撃を受けて中破し、そのまま終戦の日を迎えた。
軍艦海鷹の碑は、乗組員戦没者の鎮魂と世界恒久平和の願いをこめ、昭和57年11月22日、
元乗組員たちによる海鷹会の手によって建てられたものである。
日出町教育委員会
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別府高崎山遠望
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日出町立日出小学校東門南側にある鐘楼の鐘は、元禄8年(1695)三代藩主木下俊長が命じて
鋳造したものである。江戸時代は1日に12回撞いて時を知らせた。
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町有形文化財 「的山荘」大正4年(1915)建築 前庭
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