2017.10.11 内子町散歩

四国の旅三日目は 内子の町を散策し 今治を経て大三島まで
内子町は江戸時代後期から明治時代にかけて 櫨の実から精製される木蝋(もくろう)生産により栄えた
江戸時代は 大洲藩に属し藩財政を担う一端として木蝋生産が始まり 日本最大規模の生産地に発展した
明治以降は 純度の高い植物性の蝋剤として珍重され 諸外国に口紅やロウソク・クレヨンなどの原料の他
食品添加物として製パン用・チョコレートのコーティング材など食品用として輸出され多大な外貨を稼いだ
しかし 19世紀中期以降は徐々に石油精製によって安価なパラフィンが登場し 照明に使われたロウソクも
灯油ランプやその後の電球に変わった 木蝋生産は次第に衰退していったが
木蝋生産に携わった商人たちの邸宅はその後も残り 八日市・護国地区の町並みに栄華の面影が
今も色濃く残され 約600mの通りに伝統的な造りの町家や豪商の屋敷が当時のまま軒を連ねている

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地図の赤線は大洲街道(松山-大洲) 利用した駐車場は内子分庁第二駐車場(無料)
散策開始 午前8時 盆地特有の霧がなかなか晴れない

八日市・護国地区の町並みは 大洲街道に面し街道特有の枡形も残されている
今日のように全国各地の町並みが観光資源として評価される以前から 行政が国と折衝し
精力的に保存活動に携わってきたことが 街並み景観の保存が個々の建造物のみではなく 面として
保存していく大切さを認識させ 国による重要伝統的建造物を 群として保存していく契機となった

昭和51年(1976)住民から古い家並みの見直しが提言され 翌年から町による保存調査が行われた
昭和54年(1979)歴史的景観都市連絡協議会が発足され
翌年「内子町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され公布に至る
昭和57年(1982)八日町と護国の町並みが「国の重要伝統的建造物群保存地区」として選定された
平成17年(2005)景観法に基づく景観行政団体となる  2009年に日本版ミシュランガイド1つ星を獲得

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金毘羅灯龍(常夜灯)
この灯龍は、天保2年(1831)内子村の27の商家の世話で建立されたものです。その頃、内の子村へは、
四国八十八ケ所参りのお遍路さんたちゃ、讃岐(香川県)の金毘羅参りの人たちがたくさん泊り、その人たちの
道しるべになっていました。初めは、本町の郷の谷川岸に建てられてい ました。 大正元年(1912)内子町に
電灯がつくまでは、六日市一丁目・二丁目の人が輪番で、毎タ灯明をあげていたものです。

元の位置は ひとつ北の通りにあった その道が旧大洲街道である この写真の道は明治から大正時代に
開通した県道で その後旧国道となった道である 道路改修河川改修時に移設されたと思われる

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郷の谷から上りの街道 旅籠町であった
旧街道の家

内子座
大正5年(1916)に大正天皇の即位を祝い 内子町の中田鹿太郎ほか17名の発起人により
大典記念株式会社内子座を設立し 同年8月に着工 翌大正5年(1916)2月に落成式をとり行った
戦後は映画館的要素が強くなり 昭和25年(1950)一階桝席を撤去し椅子席に改造された
昭和42年(1967)株式会社を解散し内山商工会に所有権が移譲され 商工会館として使用するため
両桟敷及び二階桟敷撤去の大改造を行い 会議・宴会の他映画・演劇会場など多目的ホールとして使われた
昭和57年(1982)4月 八日町護国が「国の重要伝統的建造物群保存地区」として選定されたことから
内子座の復元復旧が町の施策として決定され 昭和57年(1982)9月に内山商工会から内子町に所有権が
無償移譲され 同時に内子町が町の有形文化財に指定した 翌年10月に第一次復元事業に着手
昭和60年(1985)9月 第一次復元事業が完成 10月にこけら落とし
平成7年(1995)10月 奈落の改修など第二期整備事業完成により 内子座文楽などの規模の大きな興行に
対応可能となった 平成27年(2015)7月 国の重要文化財に指定される
規模
敷地 302坪 木造2階建て瓦葺き入母屋造り 建築面積:1階中2階吹き抜け177坪 2階65坪 合計242坪
観客収容人員:650名 主要設備:枡席 回り舞台 奈落 せり すっぽん

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唐破風の上には「招き狐」が鎮座 招き猫の元は狐だったとか 愛媛は稲荷信仰が強いとか色々な説がある
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下手舞台袖の黒子部屋か?
上手舞台袖の義太夫席
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客席に向かって 左が上手 右が下手
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舞台袖上手
格子天井
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内子座の路地 内子座最中の大本製菓舗
昭和の風情 曽根医院
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アルミ缶風車の家
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洋服の並ぶ呉服店
避難梯子とロープ
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小さいが狛犬もある祠宮
ミニチュアの本格的な神殿建築物
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小川医院 ここから街道は北へと曲がる
南側への道
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酢屋 森文倉庫
大森和蝋燭屋
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八日市護国の街並み
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寛政5年(1793)建築の 大戸や蔀戸(しとみど)を全面的に開けられる開放的な商家を復元した町家資料館
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帳場と座敷
内側から見る虫籠窓
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町家資料館 二階座敷
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乾燥唐きび
枡形道
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八日市護国の街並み

重要文化財 本芳我(ほんはが)家住宅
指定年月日:平成2年(1990)九月11日  建築年:明治22年(1889)
本芳我家は、製蝋業で栄えた芳我一族の本家で、内子木蝋の基礎を築いた家である。
元文元年(1736)から木蝋生産を始めたとされ、天保11年(1840)に現在地に移り、大規模に経営を展開した。
明治期には「旭鶴」の商標で海外にも製品を輸出し隆盛を極めた。文久元年(1861)以降は、
分家やその分家が相次ぎ、それぞれ上芳我、中芳我などの通称で呼ばれている。建物は木蝋生産がもっとも
盛んであった時代を背景に建築され、建物の質が良く、亀甲形の海鼠壁(なまこかべ)や鶴・亀・波などの
華麗な漆喰細エなど華やかな意匠は内子の町並みの中でも際立った存在である。
主屋南に建つ土蔵の鰻絵は本芳我家の商標「旭鶴」である。主屋の背後には炊事場、産部屋、便所、
湯殿が建ち、これら附属の建物や庭園など敷地全体にわたって往時の面影を伝えている。
平成15年(2003)から平成18年(2006)にかけて保存修理工事が行われた。

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本芳我家土蔵
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商標旭鶴の鏝絵
主屋 松と鶴の鏝絵
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母屋
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庭園

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この下の石は水準点です 標高71.23mの地点 旧松山街道に明治初期設置
現在も地理院地図に 標高71.5mで明記されている
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午前9時 少し青空が見えてきた

重要文化財 上芳我家(かみはがけ)住宅
指定年月日:平成2年(1990)9月11日 建築年: 明治27年(1894)
上芳我家住宅は、内子最大の製蝋業者であった本芳我家の筆頭分家の屋敷である。主屋、炊事場、仕舞部屋
及び便所・産部屋、離座敷、風呂場・便所、釜場、出店倉、物置、土蔵、離部屋の10棟が現存し、
居住部分とともに木蝋生産関係の施設をともなっている。敷地内にはかつて蝋の晒し場が広がっていた。
主屋は木蝋生産の最盛期であった明治27年(1894)に上棟されており、その他の建物についても
主屋とほぼ同時期の明治30年代には完成していたものと考えられる。最も古い建物は出店倉で、
これは本家から分家した文久元年(1861)頃のものと考えられる。
また、離部屋は明治20年代中頃の建築とみられる。上芳我家住宅は各建物の質がよく、敷地も往時の面影を
よく伝えていることから、地場産業と豪商の住宅の関わりを示す点で貴重な遺構である。
平成20年(2009)から平成23年(2011)にかけて、耐震補強を含めた保存修理工事が行われた。
内子町

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上芳我家で 最も古い文久元年(1861)頃のものと考えられる出店倉の虫籠窓
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出店倉と窯場
窯場
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出店倉 窯場 母屋
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蝋搾り小屋 1988年に内子町が再建
蝋の原料 ハゼの実
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清正ひろばの休憩所
休憩所の網代天井
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清正川
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常夜灯の三差路
こんぴら へんろみち 道標
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曹洞宗 護国山 高昌寺 本尊は聖観音菩薩  四国八十八ヶ所には入らず
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高昌寺 日本最大 長さ10m 重量200トンの巨大涅槃像 メイドイン・チャイナですが
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ガレージに掛かる龍の鏝絵
屋根越しに見る本芳我家の大ケヤキ
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本芳我家
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枡形にある「あたらし屋」雑貨店
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旭館
大正14年(1925)4月13日開館 内子町・徳田徳三郎、森傅三郎、生口孫三郎他八名が発起人となり、
高岡町魁座劇場(芝居小屋)跡地へ常設活動写真館「旭館」を約七千円を投じて新築した。
以来、芝居・映画鑑賞の拠点となり、町内外より多くの人々が連日訪れた。
昭和に入り「電気館」と改名され、同40年初期まで上映し人々に親しまれた。
館内状況
階上座席:14坪・165人 階上追込席:5坪・76人 階下追込席:30坪・540人/合計781人 建物面積:126坪

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下芳我邸 蕎麦つみ草料理
HOTEL こころ.くら
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商いと暮らし博物館
昭和初期の旧警察署 内子ビジターセンター
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田丸橋
愛媛県内子町河内(かわのうち) 河内の屋根付き橋 2002年土木学会選奨土木遺産
この橋は田丸橋といい、杉皮でふいた屋根付き橋です。幅2m、全長15m、橋桁を両岸から斜めに渡した
木材で支え、橋脚を省いた構造です。これは昭和18年(1943)、洪水で橋脚に流木がからまり
流失した経験から、地元大工の工夫で河川をふわりとまたぐ姿になりました。
昔は、生活道と物産の倉庫も兼ねており、往事の暮らしぶりを偲ぶ貴重な遺産となっています。
地元住民により再建されて以来、今も田丸橋保存会によって大切に管理されています。
なお、平成21年、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」のテレビドラマ化で口ケ地となった屋根付き橋です。
平成22年(2010)3月 内子町教育委員会

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麓川(ふもとがわ)の清流
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愛媛県内子町石畳 弓削神社の屋根付き太鼓橋
弓削神社の由来
弓削神社は、応永12年(1396)に、中世伊予国の豪族といわれた河野通直の子孫で、河野宗賢が創建したと
伝えられている。弓削神社は、河野一族の城主が石畳を離れる際に、天山城(中山町永木)の南にあたる
この地に神社を創建し、河野家先代の総支配下にあり、海の要塞であった弓削島・弓削神社から、
「天照皇大神・天日鷲主命・三女命」を勧請して祭神とし、神社を自らの城に見立て、
回りに池を築き「掘り」とし、中央に橋を架けて神を祀ったとされる。
近世に至っては、双海町高岸にある三嶋神社の末社として祀られ、
明治43年(1910)岡の成・河内神社、恵比寿神社(所在地不明)等を合祀し、現在に至る。
弓削神社では、氏子の人たちが「日参り信仰」続け、一日も欠かさすことなく旗を掲げて
「五穀豊穣と家内安全」の祈願が続く。
平成21年3月吉日 『満穂の昔』(上岡明夫著より)

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社殿を囲む弓削池には屋根付き橋として知られる「太鼓橋」が架けられている
池に映る参道の太鼓橋は 屋根が杉皮で葺かれ橋脚には栗の丸太が使われている
境内全体が景勝地と言われるように 春には梅や桜の花 初夏には花菖蒲が周辺に彩りを添える

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愛媛県東温市松瀬川 山椒ヶ崖(さんしょうがだけ)
重信川の上流 表川の浸蝕作用でつくられた崖で 屏風を立てたような絶壁である
和泉砂岩の断層が重なりあって見事な自然の造形美を創出している
東温市の観光資産ではあるが周辺の環境が悪過ぎる 崖の対岸はスクラップ&ゴミ集積場
川岸に下りるにも 堤防の端が崩れていて危険 たどり着くための遊歩道も無し

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<上>
国道11号線と讃岐金毘羅道の道標
<右上>
山椒ヶ崖 なかなか近づけない
<右>
護岸が崩れて川岸に下りることが出来ない これが精一杯の写真
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愛媛県東温市河之内 雨滝
駐車場が無いので国道の路肩に車を停める 遊歩道と展望所はあるが視界が樹木に遮られて悪い
展望所のガードも心もとなく転落に注意を要する

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今治タオル美術館
どんな所かと行ってみたが 団体観光客御用達の土産物屋の観は否めない あえて行くほどの価値はない

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四国の旅はこれで一応終了 午後4時10分

今治からしまなみ海道を通り大三島へ 今日は道の駅・しまなみの駅御島で車中泊する
その前に 多々羅温泉しまなみの湯で汗を流す 前回65歳以上は300円であったが250円に値下げされていた
ここからしまなみの湯まで約44kmの距離 湯から道の駅までは6.5kmである

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