2017.10.09 伊予の小京都 城下町大洲散歩

好天が続きそうなので四国へ行くことにした 主な目的は石鎚登山であるが 大洲と内子の散策
そしてウサギ島と言われる大久野島にも行こうと思い 車中泊4泊・日数5日の予定を組んだ
しかし 後半に天気が崩れ一日早く行程を切り詰めたため 3泊4日の旅程となってしまった
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国道九四フェリー 12時00分出港の臨時便 平成28年6月に就航した新造船・遊なぎ(998トン)
自宅を7時30分頃出たが 休日とあって渋滞もなく予定時刻より30分以上早く到着 乗り場で時間を潰すが
日陰がなく暑い 今日は30度超え真夏日の気象予報が出ている
嘗て四国への国道海上ルートは 国道30号線(岡山県玉野市−香川県高松市)の宇高国道フェリー
国道28号線(神戸市中央区−徳島県鳴門市)の国道鳴門フェリー
国道317号線(愛媛県松山市−広島県尾道市)の三原・今治国道フェリ−の各国道フェリーが就航していたが
全て四国連絡橋に取って代わられ 国道197号線(高知市−大分市)の国道九四フェリーのみが就航中である
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四国への入口
新造船の快適な船室

旧城下町 大洲
昭和47年(1972)の夏に訪れて以来 45年ぶりの大洲である おりしも
当時の国鉄が放った国内旅行キャンペーンである「ディスカバー・ジャパン」<DISCOVER JAPAN>によって
全国的に「 小京都ブーム」が巻き起こった最中の大洲訪問であった キャンペーンの副題は「美しい日本と私」
今の世相と似かよった主張だが 当時は 短い夏季休暇中の慌ただしい四国旅行であったことを思い出す
大洲は 松山−大洲を結ぶ大洲街道・大洲−宇和島を結ぶ宇和島街道の接点として また西の八幡浜湊に抜ける
八幡浜街道 東へは四国山脈を超えて土佐の須崎に抜ける梼原街道が有り 中世以降は交通の要衝として栄えた
その上 肱川の中流域にあり河口の長浜まで川運が利用できることも発展に寄与したと言える
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大洲まち歩きマップ
おおず観光ナビゲーション http://www.kurarinet.jp/
おおず赤煉瓦館
明治34年12月、大洲商業銀行として建築され、敷地は800平方メートルで、3棟の建物で構成されていました。
@ 本館・事務所 煉瓦造木造瓦葺ニ階建 257.70平方メートル
  付属建物 管理室 ‘宿直室 27.84平方メートル  便所 1.84平方メートル
A 北倉庫 煉瓦造木造瓦葺ニ階建 352.22平方メートル
B 南倉庫 煉瓦造木造瓦葺平家建 40.0平方メートル
建物は、イギリス積みの煉瓦構造で、軒の上部に装飾をおく程度の簡素な外観でした。屋根は、寄棟造りで
和瓦を葺き、鬼瓦に「商」の字を入れ和洋折衷の様式をとりました。隅柱はニ丁積み46cm角、
壁面は一丁半積み32cmの厚みを有しています。この建物は、わが国の建築史上、明治洋風建築のうち
煉瓦蔵造建築として地方建築の歩みをよく示しています。また、当時の大洲地方の建築技能の歩みを伝える
貴重な文化的遺構です。明治後期の煉瓦造銀行建築としては、県内希有のもので南予地方では唯一のものです。
かって、大洲は,養蚕、製糸.晒し蝋の生産が盛んで、この地は、大洲の商業の集積地でした。
前の通りは「えびす通り」と呼ばれ、大洲地方の物産が行き交った通りで、この地で集められた物産は、
肱川を利用して各地に運ばれました。また、肱川に橋が架かるまで浮亀橋があり、対岸と結んでいました。
大洲市は、この貴重な遺構を「ふるさと創生事業」の資金を活用して再整備しました。
そして、1991年(平成3年)5月2日『おおず赤煉瓦館』が誕生しました。
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中庭
瓦に「小槌」「繭」「商の字」
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大洲まち歩き
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肱川と大洲城 係留される鵜飼見物の舟 大洲の「うかい」は夏季限定
城跡に向かって 本町二丁目から一丁目を歩く
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大洲城
鎌倉時代の元徳3年(1331)伊予国守護に宇都宮豊房が着任し 以後宇都宮氏が大洲地方を240年近く治めた
豊房は 現在も城跡とされる地に館を築き「地蔵嶽城」(じぞうがだけじょう)と呼ばれた
その後は戦国の世となり 大野直之・小早川隆景・戸田勝隆が城主となったが 文禄4年(1595)に
秀吉の家臣・藤堂高虎が宇和島から移封されたが 徳川幕府の慶長13年(1608)に伊勢国の津藩に転封された
翌慶長14年 淡路国州本から脇坂安治が大津に入部し 大津から大洲へと城名が変更され大洲藩が立藩した 
高虎・安治の二代で大洲城は 天守など近世城郭としての体裁を整えたとされる
元和3年(1617)伯耆米子藩より6万石で加藤貞泰が入部し 明治維新まで加藤氏が大洲藩主を務めた
元和9年(1623)大洲藩2代藩主泰興の弟・直泰が幕府より1万石分知の内諾を得て新谷藩が成立したが
その後もお家騒動の内紛が続き 寛永16年(1639)幕府の調停により藩内分知ということで決着し
寛永19年(1642)新谷に陣屋が建てられた 藩内分知において新谷藩は大名と認められた唯一の例であった
明治の廃藩置県により大洲県・新谷県が設置されたが 宇和島県に統合され 神山県を経て愛媛県に編入された
大洲城は民間に所有が移り 明治21年(1888)に天守閣が取り壊された
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正保城絵図 大洲城(部分) <出典:国立公文書デジタルアーカイブ>
正保城絵図は 正保元年(1644)に幕府が諸藩に命じ作成させた城郭図
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万延元年(1860)再建の高欄櫓と平成16年(2004)に復元された天守
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高欄櫓(重文)・天守(復元)・安政6年(1859)再建の台所櫓(重文)
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天守と高欄櫓
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天守と高欄櫓
南正面に当たる櫓下御門の石垣
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苧綿櫓(おわたやぐら) 天保14年(1843)再建 昭和34年堤防上に2.6m嵩上げ
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苧綿櫓と標高319.8mの大洲富士・富士山(とみすやま)
お殿様公園
国登録有形文化財で大正14年(1925)建築の 大洲藩主加藤家住宅
及び享保7年の火災で焼失し44年後の明和3年(1766)に再建された重要文化財の 南隅櫓がある
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南隅櫓と城の石垣 手前のグランドは外堀跡 右の建物が加藤家住宅
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南隅櫓
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櫓内部 二階部分
江戸時代の鬼瓦
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藩主・加藤家住宅 内部は立入り禁止
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三の丸並木道から見る天守
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昭和14年(1939)に 江戸時代の陽明学者・中江藤樹(1648年没)の邸宅跡に建てられた至徳堂
中江藤樹は近江の生まれで 9歳のとき加藤家家臣であった祖父吉長の養子となり 10歳で加藤家の移封に従い
大洲へ転居した 後に儒学を究め徐々に好学の藩風を醸成したとされるが 元和8年(1622)養父の死去により
家督を相続したが 寛永11年(1634)27歳で大洲を離れ母の待つ近江へと戻った
至徳堂は 県立大洲高等学校内にあり 庭先に残る井戸は「中江の水」と称されている
この日は月曜日 しかし「体育の日」の祭日であったが 休館で門が閉ざされており中に入れなかった
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旧八幡浜街道(三の丸迂回路)
大洲市立大洲小学校
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止善書院明倫堂跡駐車場に取り残された土蔵
食事処秀味 大洲城のオンパレード
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おはなはん通り
江戸時代のまま幅7.2mの通りで北側(左)に商家 南側には武家屋敷があり 明治まで精蝋で栄えた町
昭和41年(1966) NHKの連続テレビ小説「おはなはん」のロケが行われたことから名付けられた 
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明治中期の大洲を舞台としたドラマで お茶目で明るい「はな」が軍人と見合結婚し子供を授かったが
夫が病で早世し女手一つで子供たちを育て 困難を乗り越えて成長していく姿を描いた
主人公の「はな」を演じた当時の樫山文枝も 失礼だが御年76歳である 無論 若い人たちは知る由もない
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明治の家並
大洲神社 
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大洲神社昭和燈 昭和3年(1928)建立
昭和天皇御大典記念 高さ12m RC造
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明治の家並
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臥龍山荘(がりゅうさんそう)
三代藩主加藤泰恒が 肱川の淵にある蓬莱山を「龍が臥す姿」になぞらえ「臥龍」と命名したのが始まりで
下屋敷を設けて歴代藩主の遊賞地としたが 明治維新後は手入れされること無く荒廃のままであった  その後
神戸に在住し木蝋貿易に成功した大洲新谷出身の貿易商・河内寅次郎が余生を過ごす目的で私財を投じて
明治30年(1897)に庭園整備に着手し 明治33年から不老庵を 明治36年から臥龍院の建設を始め
10年の歳月を経て明治40年(1907)に 臥龍院・不老庵・知止庵の建造物と借景庭園が完工した
昭和31年(1956)大洲市指定文化財に 昭和60年(1985)愛媛県指定有形文化財に指定された
平成23年(2011)に「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の一つ星を獲得した
平成28年(2016)には 臥龍院・不老庵・文庫の3棟が国の重要文化財に指定されている
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臥龍山荘入口 石垣にも絵画の風情を持たせている
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臥龍院
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臥龍院の中庭
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清吹の間(せいすいのま)は 別名夏の部屋
高天井を用い 欄間の透かし彫りにより水の流れを表現し高い天井には屋久杉が使われている
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壱是の間(いつしのま)は 桂離宮様式が色濃く現れており 畳の下は能舞台となっている
床下には音響効果を高める備前焼の壺が並んでいる
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霞月の間(かげつのま)は 素朴と清楚を表現する
違い棚は京都大徳寺玉林院の霞床席を参考にし 灰色の襖にコウモリの引手は薄暮を表現する 
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茶室 知止庵 広さ2畳 かつては湯屋であった建物 昭和24年に改装
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不老庵は 懸造り(崖造り)の離れ家 網代天井を用い川面に浮かぶ舟に見立てた建物で
縁続きに大徳寺風の茶室が備えられている
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中秋の名月には 臥龍淵の水面に照り返す月明かりが網代天井に差し込む
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不老庵 茶室の水屋裏
不老庵の湧水井
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石臼の飛び石
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臥龍山荘の開園時間は17時まで 16時30分には札止めとなる 我々が最後の訪問客であった
16時40分山荘を出ると 背後で門を閉める音がした
大洲を後にして 肱川河口の長浜へ急ぐ できれば肱川あらし展望公園から夕焼けを見たい
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長浜大橋
わが国最古の道路可動橋で 昭和10年(1935)8月県道橋として架設された
事業主体は愛媛県 設計は増田淳設計事務所 1年10ヶ月工期と当時の金額で29万円の巨費を投入した
平成26年(2014)国の重要文化財に指定 後に近代産業遺産に登録されている
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橋長:232.3m 幅員:5.5m トラス橋5径間・稼働橋1径間・耐重バランス橋1径間の全7径間の鉄橋
右岸から3径間目が可動部で稼働桁長さは約18mある
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機械的無骨さが良い
現在は毎週日曜日に開閉される
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約82トンのバランスウェイトを使い 僅か15馬力の電動モーターで稼働させる
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電動アームと動力小屋及び可動桁
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建築物ではなく大きな機械という印象
帆掛け舟が通過する竣工当時の写真

時間はすでに17時25分 日没まで時間がない ナビに「肱川あらし展望公園」を入力するが出ない
おおよその場所を最短距離で指定してGO! とてつもなく細い道を案内され漸く展望台に到着
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17時41分
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17時50分展望台から下りる 明日は石槌登山 今晩は久万高原町の「道の駅・天空の郷さんさん 」で車中泊
その前に国民宿舎古岩屋荘で温泉に浸かる予定 道の駅まで62km そこから温泉まで往復18kmある
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