2014.11.13  しまなみ海道 来島(くるしま)

しまなみ海道二日目は 強風のため自転車を畳みドライブとウォーキング
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大三島 県道51号線北回り自転車道 上浦町盛の海岸線を車で行く

大三島宮浦 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
伊予国一宮 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である また 主祭神の大山祇神は
三島大明神とも称さることから 四国を中心に新潟県や北海道まで広がる三島神社の総本社でもある
山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた
主祭神 大山積神 (おおやまづみのかみ)
元来は山の神で 伊弉諾尊と伊弉冉尊の子であり 磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父とされる
 古代の表記では「大山積神社」とあり 扁額には「大山積大明神」と掲示されている
本社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記されたように 神の島とされていた
大山祇神社は 仁徳天皇の代 百済より摂津国御島へ勧請 推古天皇2年(594)大三島瀬戸に遷宮される
現社は 霊亀2年(716)造営終了し 養老3年(719)の遷宮の儀を経て鎮座した古社である
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来島は 面積 0.04平方kmの小島で 中央部の標高47mの小山には 嘗て村上水軍の来島城もあった
島の南東部に来島漁港と集落があるが 人口は僅か24名(2015年1月)である
「くるしま」は 来島海峡の潮流が速くまた潮向も複雑なことから言われる「狂う潮」が語源と伝わる
能島・因島と並び 南北朝時代から戦国時代にかけ活躍した海賊・村上水軍の根拠地であった
来島村上氏は 早くから秀吉の臣下についた為 独立大名とされたが 秀吉の海賊停止令により
水軍の解体を余儀なくされた 関ヶ原の戦いでは西軍についいた為 豊後の森藩に転封されるまで
小島に出城を築き 6代・約160年の間 島に本城を置き来島海峡をゆきかう船舶に睨みを利かせていた
豊後森藩では久留島氏を名乗り 無城大名で尚且つ海から遠く放れたところではあったが
明治期まで12代家督は続いた 来島は 江戸期以降波止浜に塩田が築かれると 塩買船や回船の集まる
港町として繁栄した 来島にも多くの船主が居を構え 昭和初期まで瀬戸内航路の要衝として繁栄した
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波止浜港から船で渡る 灯明台と今治造船所
<灯明台掲示板>
奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾と呼ばれ、古くから帆船の重要な風待ち、潮待ちの
天然の良港で、戦国時代は来島水軍の船溜まりとして重要視され、天和3年(1683)以降の塩田開発による
町家の増加、塩買船、塩田資材を供給する船の出入りが多くなり、港町として発展し、
伊予の小長崎といわれるほどに成長した。元禄16年(1703)には港の入り口に出入船舶を監督する
船番所が置かれ、船舶と他国者の出入りを厳しく取り締まり、船税の徴収にもあたった。
今もその付近を御番所前という。(現在地より北の方、ドックの中あたり)
 この大燈明台は嘉永2年(1849)に御番所前に建てられたもので、高さ約6メートルあり、
海上の安全を祈願したもので、当時の波止浜の人々の意気を示している。
明治35年(1902)に現在地に移された。南面に嘉永二己酉十月吉日、海上安全と彫られ、
東面には金毘羅大権現と彫られている。この前から来島、小島、馬島への渡船が発着している。
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波止浜の町並み
豪商旧家
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来島・小島・馬島への(有)くるしま渡船 
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来島観光休憩所 待合室
伊予河野氏の建立の八千矛神社
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本殿
伊予河野氏の紋瓦
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柱穴跡 桟橋の柱穴の跡だと見られている 島を囲む岩礁に無数の穴がある
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廃屋が多い 島の人口は現在14世帯24名で僅かである
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栄華を偲ばせる空き家も多い
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城跡の心月庵
来島城址 石垣
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村上神社鳥居
本丸跡
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来島海峡第一大橋・第二大橋・第三大橋と潮の流れが速い来島海峡
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小島ビワ首と間ノ瀬岩礁
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今治小浦町の造船所
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波止浜を出た定期渡船がやってくる 次は小島へ渡る
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