2025.05.02  佐賀県三養基郡基山町大字園部 天台宗 別格本山 小松山 大興善寺のツツジ

奈良時代の養老元年(717) 法相宗の僧侶・行基が草庵を結び 十一面観音像を刻み安置したのが始まりと伝わる
平安時代初期の承和元年(834)に全ての堂宇伽藍を焼失したが 本尊の観音像は無事持ち出され難を逃れた
承和14年(847) 後に比叡山第三世慈覚大師となる円仁が 唐より帰朝の際 名刹の炎上を嘆き堂宇を再興
名を大興善寺と改め 天台宗大本山延暦寺の末寺に並んだ
大興善寺の名は 円仁の留学先であった唐の長安・大興善寺の寺号を採ったものである 後の戦国時代に至って
堂宇が破壊され荒廃 300町歩に及ぶ寺領も奪われ疲弊し 本尊・経巻を御子谷千手堂に一時避難させた
戦国時代中期の天文11年(1542)に 勝尾城(鳥栖市牛原町)主・筑紫惟門によって再建された
現在の本堂は 江戸時代の元和10年(1624)に飛び地支配の対馬藩主宗義成によって建てられたものである

現在の規模 7万5千平方m ツツジ約5万本を植栽した契園(つつじ園)は 大正時代から続く庭園で
「つつじ寺」とも呼ばれる古刹・名勝地となっている

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パンフレット 表紙と契園マップ
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明治27年(1894)完成の「きぼうの坂」は127段ある 以前の石段は自然石を積み上げた不規則な石段であった
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神仏習合の名残 龍蔵権現を祀る熊野神社 右は寺の鐘楼
元は基山々頂に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と合祀されていた木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)を契山に遷座
龍蔵権現と称し その後 大興善寺境内の当地に遷座した 瓊瓊杵は神武天皇の曾祖父
木花咲耶姫はその妻で 伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)の子である大山祇命(オオヤマヅミ)の娘となる
一般には安産の神として信仰される また花のように美しいことから桜の語源とされている
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仁王門とモミジ
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茅葺きの本堂
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庫裏(くり)の茅葺き屋根
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400年前の江戸時代初期・元和10年(1624)に落成した本堂
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本堂前から境内
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享和2年(1802)建立の宝篋印塔
江戸時代後期の天台宗高僧・豪潮律師によって「全国八万四千塔建立」が発願され 最初に建立されたことから
「八万四千塔最初の塔」と呼ばれている 律師70歳のとき 全国各地に大小併せて二千余りの塔が建立されたが
残念ながら満願とはならなかった 大正12年(1923)契園のつつじ植栽はこの塔から始められた
宝篋印塔には 次の銘文が刻まれている
「天下泰平 国家安全 風雨順時 日月清明 五穀成就 一切衆生 皆帰正法 二世安楽」
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宝篋印塔前から見下ろす境内
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赤葉のカエデはノムラモミジ
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ツツジの名庭「一目一万本」

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◁ 一目一万本のパノラマ写真 ▷
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一目一万本
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「一目一万本」から「契園」へ
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一目一万本の上部
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一目一万本
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ツツジの美しさにも増してモミジの新緑にも圧倒される 秋の紅葉に期待が高まる 再訪は必須
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縁結びの契山観音堂
寺伝によれば 契山の名は五十猛命と当地のさこの姫との婚儀が行われた山という伝説が元とされているが
諸説あり定かではない 『日本書紀』の記載によれば五十猛(イタケル)は素盞鳴の子で 父子共に朝鮮に渡り
種子を持ち帰って日本全国に樹木を植えたとされる出雲の神で 樹木や林業の神として崇敬されている
さこの姫は 木花咲耶姫の別名とするのが一般的で 境内にある熊野神社の祭神でもある
「契山」と「さこの姫」の伝説に「五十猛命」を加え 観音像を安置し「恋人の聖地」とする企てで
平成24年(2012)7月「恋人の聖地プロジェクト」の 全国115番目の聖地に見事選定された
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アジサイも咲く
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南西側展望 耳納山地と久留米市遠望
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園内は広く 隅々まで歩き回る客は少ない
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