2021.04.09 宮崎県西臼杵郡高千穂町押方 二上山女岳のアケボノツツジ

二上山(ふたがみさん)は 五ヶ瀬と高千穂の町境にある山で 主峰の男岳(1082.0m)と
女岳(989.2m)のふたつの峰からなる 高千穂町から見るとふたつの峰がそびえ立って見える
神話では ニニギノミコト(天照大神の孫)が大勢の神々を引き連れて降臨したとされる山とされ
男岳山頂の南九合目に三ケ所神社の奥宮がある 一方の女岳はアケボノツツジが咲く山として知られている
この二峰の鞍部にフォレストピア六峰(ろっぽう)街道が通る 六峰街道は 宮崎県延岡市北方町から
五ヶ瀬町に至る延長57kmの広域林道で 二子山東線・二子山西線・諸塚山線の3基幹林道からなり
速日峰(868.0m)・九左衛門(1100.6m)・真弓岳(1073m)・諸塚山(1341.5m)
赤土岸山(1169.4m)・二上山(1082m)の六峰を縫うように尾根道を走ることから名付けられた

ツツジ目 ツツジ科 ツツジ属 アケボノツツジ(曙躑躅)
学名:Rhododendron pentaphyllum var. shikokianum
ツツジ属名の Rhododendron は バラの rhodon と樹木の dendoron の合成語で「赤い花をつける木」
種小名の pentaphyllum var. は「五葉」を表す 変種名に「四国の」を表す shikokianum とあり
本来の原産地は四国で 紀伊半島にも分布する日本固有の落葉低木である
他に二種類の変種があり三重・滋賀以東にはアカヤシオ 九州にはツクシアケボノツツジが分布している

二上山に咲くのは「ツクシアケボノツツジ(筑紫曙躑躅)」である
学名:Rhododendron pentaphyllum Maxim
九州特産種で分布域は大分県南部から宮崎県北部と狭く 環境省レッドリストで
準絶滅危惧(NT)に指定されており 人による採取や踏みつけなどによる生育地の減少が懸念されている
img
1.二上山女岳 2.二上山本峰男岳・三ヶ所神社奥宮 3.フォレストピア六峰街道の登山口
imgimg
標高940m 六峰街道の登山口 9:58
女岳山頂まで距離500m 標高差50m
img
尾根筋に上がると北側にアケボノツツジが並ぶように咲く
img
img
img
imgimg
img
アケボノツツジ(曙躑躅)の語源は 花の色が「夜明けの空の色」を連想させることが由来となった

今のところ アケボノツツジ独自の花言葉は存在しない
img
img
img
img
img
imgimg
山頂 10:21 写真を撮りながら23分の行程
img
二上山女岳山頂展望台
img
img
二上山男岳
img
阿蘇五岳遠望
img
高千穂町大字押方字芝原を遠望 国道218号線の旧道(肥後日向往還)にある集落
img
眼下に六峰街道
img
10:42 下山開始
img
img
img
imgimg
img
img
アケボノツツジと阿蘇五岳
img
img
アマテラスの孫ニニギが アマテラスから授かった三種の神器を携え
アマノコヤネを始めとする五神を引き連れて 高天原から地上へと降り立った「天孫降臨」の地は
古事記では「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」と記され 日本書紀では「日向の襲の高千穂の峰」
「高千穂くじふるの峰」「くじひの高千穂の峰」「高千穂くじひ二上峰」「高千穂そほりの山峰」と
本文を含め5通りの記述があるため 特定するに至らず 現在でも論争が絶えない
日向風土記では「天の八重雲を押し分けて日向の二上の峯に天降ってきた」と記され
風土記が和銅6年(713)元明天皇の詔により編纂されたことから 当時は二上山であったと思われる
江戸時代に徳川水戸家による大日本史編纂を契機に古事記・日本書紀の研究が進み 国学者・本居宣長は
何かに忖度するように「初めに高千穂に、そして霧島山に遷った…」とする折衷説を出すに至った
明治以降の国家神道では高千穂峰説がとられ 唱歌の「紀元節」に「雲に聳ゆる高千穂の・・・」と歌われ
現在に至るまで 頂上にあるのが「天の逆鉾」であるとして高千穂峰説が広がりを見せている
img
img
二上山男岳とアケボノツツジ
img
img
img
img
imgimg
下山 11:07
男岳登山口 九合目に三ヶ所神社奥宮がある
img
男岳登山口のミツバツツジ

熊本県上益城郡山都町馬見原 日向往還 馬見原宿

九州のほぼ中央に位置する馬見原は 日向と肥後の国境にあり 熊本と延岡を東西に結ぶ日向往還の
重要な宿場町であった また 南北には阿蘇と椎葉を結ぶ道路が交差するところで交通の要衝でもあった
そのため熊本藩の大関所が置かれていた 物資の集散地や流通の拠点として繁栄し 肥後はもとより
豊後の竹田・日向の三田井(高千穂)や椎葉などの商人達も集まる交易の盛んな宿場町となり
駄賃付という物資の運搬に携わる人々の往来も多く 江戸中期から明治・大正・昭和初期にかけて繁栄した
明治22年(1889)には 阿蘇郡内で最初に町制がしかれ 町には商家が軒を連ね
造り酒屋が16軒 ・芸妓置屋が5軒・茶屋が7軒などもあって昼夜たがわず大いに賑わっていたと伝わる
明治35年(1902)に 宮崎県立延岡中学に在学中で後に歌人となる17歳の若山牧水が
延岡から三田井・馬見原・浜町・御船を通り熊本までの旅中に当地を訪れ 馬見原の若松屋に投宿したおり
その道中日記に「馬見原ハ シャレタ町ナリ」と記すほど 山間の鄙びた地の栄華に驚きをあらわしている
大正年間の馬見原を描いた屏風絵には 大正15年(1926)建築の 収容人数750で回り舞台が備えられた
近代的な芝居小屋「花園座」や 街道筋に建ち並ぶ大きな商家や町家
また 中には当時馬見原で流行った外観三層(内部四階)の上に望楼が乗った特異な建物も描かれていた
大正15年(1926)初夏に 俳人種田山頭火が熊本から延岡まで托鉢を続け 馬見原で木賃宿の益城屋に泊り
「分け入っても 分け入っても 青い山」と有名な句を詠んだと伝えられる 今では道路も拡幅整備され
物資の集散地としての役割が薄れ さらに何度かの大火によって当時の姿を留める建物も少なくなったが
繁栄の面影を残す一部の建物や石垣・古文書などの文化遺産が その残滓として残されている
imgimg
馬見原宿
左・日向往還 右・椎葉往還(?)
imgimg
六地蔵と永禄6年(1563)建立の火伏地蔵尊
火伏地蔵前の日向往還(日向からは肥後往還)
img
高札場・上番所跡(恵比須宮)と新八代屋
新八代屋は醤油醸造を営んでいた商家で明治17年(1884)に建てられた(隣の標柱には明治22年建築)
この建物は漆喰総塗籠という江戸時代の防火構造のひとつである 一見すると三階建てに見えるが
内部は四階層になっており かつては四階の上に2間×3間の望楼があった
屋根の上に望楼を設ける建築物は当時の馬見原ではよく見られた 明治26年(1893)9月の約20日間に
現・服掛 松キャンプ場の周辺において軍事演習が行われ 第六師団長であった
皇室の北白川宮能久親王が滞在し 当時の資料や調度品などが現在も残されている
imgimg
昭和7年の写真(色あせた掲示板から)
馬見原観光図(これも色あせた掲示板から)
img
img
間口が狭く奥行きの長い江戸時代の町家風建物 空き地も目立つ
img
椎葉道口 霧立越(きったちごし)を経て椎葉横野まで約35km
霧立越は南北に二条連なる九州脊梁山地東側の尾根筋を徒歩と荷駄で通う道 馬見原から黒峰(1283m)
小川岳(1542.1m) 向坂山(1684.4m) 白岩山(1646.4m) 扇山(1661.3m)を経て椎葉村に入る
昭和8年(1933)に日向から椎葉まで県道(国道327号)が開通するまで 椎葉村への唯一の道であった
霧立越は「駄賃付け道」と言われ 馬による荷駄で椎葉から椎茸やムキタケなどの天然のキノコ類・木炭
毛皮・川のり・のり樽などの山産物を搬出 江戸の一時期は木地屋ろくろ製品なども運び出していた
一方の馬見原からは 味噌醤油類・酒類・米・衣類などの日用品を運び込んでいた
道路開通後「駄賃付け」はしだいに途絶え 昭和12年(1937)頃には廃道となった
入口に若山牧水の歌碑がある
山の宿の 固き枕に 夢を呼ぶ 秋の女神の 衣白かりき
若山繁17歳 明治35年・日記
11月9日 晴れ
六時出發ス、三田井ノ近傍濃霧、咫尺ヲ辯ゼズ、赤谷ト云フニテ晝食ス、秋色ますます深クシテ、
そぞろニ旅ノ面白キヲ感ズ、赤谷ノはずれニテ阿蘇ノ煙ノ立チ上ルヲ見タリ、高山開ケテ、岡丘表ハル、
三時馬見原ニ着ク、第三小ノ第三、四分隊ハ和泉屋ト云フニ泊ル、待遇頗ル厚シ、
馬見原ハシャレタ町ナリ
*咫尺ヲ辯ゼズ(しせきをべんぜず):視界がきかず、ごく近い距離でも見分けがつかないこと。
*晝食(ひるげ):昼食
*頗ル(すこぶる):かなりの程度であるさま。たいそう。非常に。はなはだ。
img
馬見原橋
旧国道に架かる橋で 1995年6月に架け替えられた 上が車と歩行者のための橋で、下が歩行者専用の橋
設計上では 上橋の幅が5.8m 下橋の幅が1.7m広い7.5mで 歩行者は自然に下の逆さ太鼓橋に
吸い込まれるという仮想であったが 小学生も上橋を通行していた
熊本県のHPに「単に視覚的に目立つモニュメントではなく・・・」とあるが
現状では壊れかけたモニュメントである 年ごとに補修予算を組まないため作りっぱなしの建造物で
人が利用しなくなり ますます朽ちて「負の遺産」となっていく 全国で見られるありふれた光景
imgimg
imgimg
常時日陰となる側は床板と鉄骨まで腐食し通行止め 数年後には下橋は取り壊し撤去の可能性あり
img
白岩山と木浦岳の北麓を水源とする五ヶ瀬川 延岡で日向灘に注ぐ
img
夫婦岩
町の入口に門構えのように立っているが 南側(右側)の岩は山伏の修行の座で 祠を立てて火災を鎮め
家内安全・五穀豊穣を祈ったと伝えられ 昔から秋葉山大権現が祀られている
夫婦岩には現在も9mの大注連縄が架けられており バイパスが出来るまでは
全国唯一・注連縄のかかる国道として有名であった 現在でも 町道ではあるが大きな車道の上に注連縄が
架かるのは極めて珍しいことである 夫婦岩の周辺には生目神社・加藤神社・明神の本(湧水)などがある
imgimg
下番の目鑑橋 旧日向往還に架かる橋で橋の袂に下番所があった
ここを通って木造の三河橋で五ヶ瀬川を渡り 対岸の河原から坂を上って大関所を抜けて町に入った
img
大関所跡(駐車場)の大島桜と山桜
TOP