2019.04.01-02  熊本桜散歩 2019

一房ダムの桜を見に一泊の予定で出かける 目的地は一房ダムの他 水俣市湯の児のチェリーライン
宇城市の立岡自然公園などを予定しているが いつものように寄り道多々あり
大分県日田市中津江村栃野 下筌ダム 蜂の巣公園
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蜂の巣の由来は 下筌ダム建設反対の砦として 地元住民により築かれた蜂の巣城に因んでいる
昭和45年に和解が成立し ダム湖の名を蜂の巣湖とした
この壮絶な反対運動は その後の公共工事のあり方に一石を投じた
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蜂の巣湖 10:20 出立 兵戸峠を越えて旭志へ
熊本県菊池市旭志麓 旭志の桜
広域農道の菊池グリーンロード脇にある植木農園の周囲に植栽されたソメイヨシノ
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標高393.5m 智者ヶ峰
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熊本市東区 自衛隊通りの桜並木
約1.5kmに約380本のソメイヨシノが植えられており 熊本市内でも有数の桜並木として
多くの市民の方に親しまれている しかし植栽から半世紀以上たち 近年は密植による障害で多くの桜に
倒木などの危険が指摘されているため  植替えの基本方針を策定し実行されつつある
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熊本県八代市豊原上町 豊葦原神社の桜
祭神は天地開闢に出現した第一神の国常立尊(くにとこたちみこと)を始めとする19柱と
配神として応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の八幡神三柱を祀り合計22柱とは賑やかではある
通称は遥拝神社と呼ばれ 地名でもある「遥拝」の由来は
南北朝時代 南朝の征西大将軍として肥後国隈府(現・菊池市)を拠点に 南朝方の勢力を広げ
九州において全盛期を築いたとされる懐良親王(かねながしんのう)が
吉野の皇居と阿蘇宮を遥拝し国家の安泰を祈っていたとされることから名付けられた
神社の創建には諸説あり定かではないが 八代郡誌及び県神社誌では天平時代758年の創祀とされている
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ステンレス製「一の鳥居」 参拝客の安全を考えての事らしいけど・・・
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ステンレス製「二の鳥居」 灯籠は石のようですが
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この神殿に22柱の神様がひしめき合っていると思えば 何かおかしくほほ笑ましい
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薩摩オレンジ鉄道(旧鹿児島本線)球磨川橋梁と南九州自動車道の球磨川橋
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八代から人吉への道を 当初予定の芦北周りをやめて急遽球磨川を遡ることにした
それで出会うことが出来た遥拝桜 満開の桜を充分堪能し 午後3時人吉に向けて出立する
国道219号線の桜
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熊本県球磨村一勝地 桜吹雪を走る
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熊本県球磨村渡 球磨川と国道219号線
人吉城址
中世に荘園が拓かれ球磨荘(くまのしょう)と呼ばれる王家領であった 平家一門の平頼盛が経営を司り
鎌倉時代初期には源頼朝から地領として安堵され 頼盛の家臣・矢瀬主馬佑が城を構え支配した
建久3年(1192)に王家領・関東御領・公領などに分割され人吉荘・永吉荘などが成立した
元久2年(1205)王家領の人吉荘に相良長頼が地頭として任ぜられたが 長頼は意に沿わぬ主馬佑を謀殺した
以降相良氏が矢瀬主馬佑の城に居を構え拡張して人吉城の基礎を造った 後明治維新に至るまでの670年間
転封もなく 相良氏の支配が続いた 江戸時代には人吉藩が立藩され相良氏の人吉城が藩庁となった
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三の丸跡からの展望
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二の丸石垣
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本丸跡から見る二の丸跡
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本丸跡
本丸は当初「高御城(たかおしろ)」と呼ばれていた 天守閣は建造されず寛永3年(1626)に
護摩堂が建立され 祖堂・太鼓屋・山伏番所もあった
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二の丸跡
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中御門跡
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城下御門跡
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武者返しの石垣
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相良氏の居館・御館(みたち)跡の庭園 近年偶然に発見された
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南内堀
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明和3年(1766)架橋 御館御門橋(石造)
午後5時になった 今日の宿泊地「道の駅・錦」へ移動 距離9.4km 途中イオン錦店に寄る
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