2017.04.13 奈良県吉野町 吉野山の千本桜

古代より吉野山は かつての大和国吉野郡(よしのごおり)上市村・柳の渡し南岸の橋屋より
吉野神宮・金峯山寺・金峯神社を経て 標高858.1mの青根ヶ峰に至る尾根続きの山々とその地域を指し
大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場・修行道の大峯奥駈道の北端となる
古代の吉野山は  桜の花ではなく奥深い雪の里として都人たちに知られ
百人一首にも冬歌として  「み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり」
「あさぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に 降れる白雪」などと詠まれていた
平安時代初期に 空海が日本に密教をもたらすと 密教と日本古来の山岳信仰が習合して修験道が盛んになった
修験道の開祖とされる役小角が 桜の木を彫り蔵王権現像を奉じたという伝説から 御神木として
役小角が開基したとされる金峯山寺に桜の苗木を寄進し 吉野山に桜を植樹する習わしが始まった
また 吉野山全域が神域とされていたため 植樹された桜を傷つけたり伐採することを厳しく戒めた
これらのことにより 後世鎌倉時代の新古今和歌集では  雪と桜が入れ替わり
「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ」と西行法師が詠むほど
吉野山全域が 今に至る桜の名所になったといわれている
桜の樹種は ほとんどが白山桜(シロヤマザクラ)で その数は約3万本にも及ぶといわれている
特に桜の集中する一目千本と言われる区域を 麓に近い北から「下千本・中千本・上千本・奥千本」と呼ぶ
歴史としては 大海人皇子(天武天皇)が大津宮を離れ吉野山に隠棲し その後672年に壬申の乱を起こして
政権の座についた 文治元年(1185)の冬 義経・弁慶らが吉野山に隠れたが 頼朝の追討を受け
静御前と別れて東国へ逃走したとされる また 建武3年(1336)後醍醐天皇が都を逃れ南朝を吉野に置いた
これらの歴史的事実は 吉野が 神仏の加護と自然の要谷に恵まれた場所であることをあらわしている
文禄3年(1594)の春 太閤秀吉が総勢5千名を引き連れ 吉野山で大花見会を催した
以降 天下に名立たる桜の名所として名を馳せ 江戸時代末期に江戸染井村で品種改良された桜に
「吉野」の名を採り「ソメイヨシノ」と命名し 桜の代表的な樹種となったことは周知の通りである
大正13年(1924)に国の名勝・史跡に指定され 昭和11年(1936)には吉野熊野国立公園に指定された
平成2年(1990)日本さくら名所100選に選定 平成16年(2004)には吉野山及び高野山から熊野に至る
霊場と参詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録されている
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阪九フェリーで福岡・新門司から大阪・泉大津港へ船旅 泉大津からは高速道と国道を利用し 吉野附近の
渋滞や混雑を回避するため 車を近鉄線の福神駅パーク&ライド駐車場に停め 電車で吉野駅まで移動する
駐車料金一日一回500円 近鉄運賃330円(普通)福神−吉野駅間は単線のため 普通でも特急でも時間は同じ
なので特急券(510円)は無駄である 駐車場には午前7時30分に到着 隣接のファミマで朝食と昼の軽食を調達
朝食を済ませて  福神駅発午前8時11分−吉野駅着同8時36分の普通電車に乗車する
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花吉野くらぶ一時預かり駐車場
駐車場出入口
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花吉野第2パーク&ライド 第1は月極の方かな?
近鉄吉野線 終点「吉野駅」
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ロープウェイには乗らない
高低差100m・距離500mの七曲坂を登る
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幣掛桜(四手掛桜) 学名:御車返し(みくるまがえし)
吉野山の桜の多くは山桜(白山桜)でこの附近下千本から中、上、奥千本へと花見の人達を楽しませてくれますが、
この桜は、吉野山では大変珍しい品種で「御車返し」といい、八重咲きと一重咲きが交わって咲きます。
「御車返し」の名は、江戸時代に御水尾天皇がこの桜のあまりの美しさに、のっておられた牛車を
わざわざ引き返させて御覧になられた故事から由来しています。
「御車返し」は園芸種として作られた桜ですが、淡い紅紫の花はやや大きく華やかな姿で人々の瞳を引きます。
他の花より遅れて咲き、中旬から下旬にかけて見頃を迎えます。
本来の名は「御車返し」ですが、神社の名をかぶせて「幣掛桜(しでかけざくら)」と呼ばれています。
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ロープウェイ吉野山駅前 AM 9:04
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芭蕉句碑と一里石

芭蕉と吉野山
松尾芭蕉は、もと伊賀上野の藤堂家に仕えた侍でしたが、主君が若くして病没したので、故郷を捨て、
京都へ出て学問にいそしみ37歳の冬、江戸深川に居を定めました。彼は旅を住家とし、旅に死んだ人ですが、
41歳の貞亨元年(1684)9月吉野山を訪ね、このときの旅を『野晒紀行(のさらしきこう)』と名づけ
「独り吉野の奥に辿りつけるに、まことに山深く、白雲峰に重なり、烟雨(えんう)、谷を埋んで
山賊(やまがつ)の家処々に小さ<、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声心にこたふ。ある坊に一夜を借りて
『砧(きぬた)打って 我に聞かせよや 坊が妻』
西上人(西行法師)の草の庵の跡は、奥の院より右の方二丁ばかり分け入る程に・・・とくとくの清水は
昔にかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける。
『露とくとく 試みに浮世 すすがばや』
山を登り坂を下るに、秋の日既に斜めになれば、名ある処々見残して、先づ後醍醐帝の御陵を拝む、
『御廟年経てしのぶは何を忍ぶ草』・・・・」
芭蕉はそれから四年後の、元禄元年(1688)再び吉野山を訪ね、
この旅のことを『笈(おい)の小文』という紀行にしるし、
『吉野にて 桜見せうぞ 桧の木笠』
『春雨の 木下につたふ 清水哉』
吉野の花に三日とどまりて、曙黄昏(あけぼのたそがれ)のけしきに向ひ、有明の月の哀れなるさまなど、
心にせまり胸にみちて、あるは摂政公の眺めに奪われ西行の枝折に迷ひ、かの貞室がこれはこれはと
打ちなぐりたるに我いはん言葉もなくて、いたずらにロを閉じたる。いとロ惜し」とむすんで、
吉野の花は一句も詠んでいません。咲き誇る花にただただ酔い、その美しさに 心を奪われて、
さすがの芭蕉もロを閉じたものと見えます。

七曲り下の千本
吉野駅から弊掛社をへて、吉野山へ登る急坂を七曲りといいますが、この付近帯に植わっている桜が
下の千本で、昔の一目千本というながめもこの辺りのことをいったものです。元禄のころの
「吉野紀行」という書物に「日本が花」七曲りなど過ぎゆくに、もろ人桜苗を求め植えて蔵王権現に奉る。
みずからも又桜三十本を植えさせて『いつかまた 訪ふといひつつ み吉野の
わが植えおきし花を来て見む』 とあり、同じころの貝原益軒の「和州巡覧記」という本にも
「七曲り、この坂に村童ども多く桜苗を売りて、すなわち唐鍬をもって植える。下の谷を桜田という名所也」
と書かれています。これを見ると吉野山に登ってくる人は、ここの桜は蔵王権現に供えるためにあるのだ。
という考え方が徹底していたようですし、又地元の人も桜苗を栽培していたことがわかります。
それにしても、今は昔ほど桜を大切にしようという気風が、うすれてきているのは残念ながら事実です。
それは蔵王権現に対する信仰のすたれということもあるでしょうが、それに代って
自然と伝統をより大事にしようという、素朴な心を養うことを、もっと真剣に考えられてよいはずです。
この付近は、そういうことも併せて考えさせるところでもあるのです。
吉野町
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昭憲皇太后(明治天皇の妃)御野立跡(お野立ち跡)展望台から見る七曲りの下千本
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吉野山大橋南詰め展望所
吉野山大橋
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黒門
黒門は金峯山寺の総門で、いうなれは吉野一山の総門でもあります。こういう様式の門を高麗門といい、
城郭によく用いられています。昔は公家大名といえどもこの門からは、槍を伏せ馬をおりて通行したという
格式を誇っていました。ちなみに金峯山というのは吉野山から大峯山に至る峰続きを指し
修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねていました。それらの総門がこの黒門だったのです。
現在の黒門は昭和60年秋、金峯山寺本堂蔵王堂の大屋根大修理にあわせて改築されたものです。
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銅の鳥居(かねのとりい)
正式名称は発心門という 修験道・大峯信仰の根本道場である山上ヶ岳(大峯山)に至る大峯奥駈道には
発心・修行・等覚・妙覚の四門があり これが最初の門である 行者たちはここから向こうを冥土と見たて
俗界を離れ修行する決意を固めて出立する「門出の門」とした
創立年代は不詳だが 俗説によれば奈良東大寺盧舎那仏像(大仏)鋳造の余剰銅を使い創建されたと伝わる
室町時代の『太平記』によれば 貞和4年(1348)に足利尊氏の側近・高師直(こうのもろなお)の兵火により
焼け落ちたと記されており 室町時代の康正年代(1455年から1457年)に復興されたと考えられている
高さ約7.5m 柱の周囲約3.3m
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銅の鳥居 AM 9:35
金峯山寺山門
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山門屋根と扁額
韋駄天山から見る金峯山寺蔵王堂

金峯山寺をスルーして ビジターセンター・郵便局を過ぎると「吉野葛・久助堂」の前に石段がある
傍らの掲示案内板には「韋駄天山」 余り上っていく人がいないので好奇心のまま登ってみることに
韋駄天山
韋駄天は仏法を守る護法神で、帝釈天に納める仏舎利(釈迦の遺骨)を捷疾鬼(しょうしつき)に奪われたとき、
足の早い章駄天が追いかけてこれを取り返したという話があります。
このため足の早い人のことを韋駄天にたとえたり、早く走るさまを韋駄天走りなどというようになりました。
また子供を病魔から守ってくれるという信仰もあって、毎年七月六日に例祭が営まれます。
標高370mのこの上の台地からは、蔵王堂や、上千本、中千本が見晴らせ、格好の展望台になっています。
吉野町親光課
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韋駄天山の石段
韋駄天山から東南院多宝塔と中千本
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韋駄天の祠宮と桜(ソメイヨシノ)
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東南院多宝塔としだれ桜
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吉野本葛・八十吉
東南院の山桜 AM 10:00

吉水神社の一目千本
察神:後醍醐天皇 · 楠木正成・吉水院宗信法印
元は吉水院という修験宗の僧坊で 天武天皇の自鳳年間に役行者が創建したといわれている
明治8年に神仏分離政策により 後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから「吉水神社」に改められた
文治元年には 頼朝の追手に逃れた義経と静御前が弁慶らと共に隠れ住んだと伝わる
延元元年 後醍醐天皇が京から逃れ 吉水院を南朝の皇居と定め 現存する南朝唯一の行宮となっている
文禄3年 秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催し 吉水院を本陣として数日間滞在した
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吉水神社からは 中千本・上千本の桜が見渡せる
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中千本 食事&カフェ 朝日館 AM 10:50
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如意輪寺遠望
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中千本の「バスのりば」を過ぎると上千本になる
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上千本はまだ満開ではない AM 11:30
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花矢倉から金峯山寺と中千本遠望
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手前の上千本と中千本
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中千本遠望 AM 12:00
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道標の立つ花矢倉から如意輪寺への道
左/桜木 いせ 右/子守
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稚児松地蔵
如意輪寺の道標 「右上 水分神社」

如意輪寺
開基は 平安時代の延喜年間(901−922)と伝わる 南北朝時代に後醍醐天皇の勅願所とされたが
吉野で崩御して本堂裏山に葬られた 慶安3年(1650)に本堂が再興され 同時に真言宗から浄土宗に改宗した
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如意輪寺から温泉谷の桜 PM 12:45
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如意輪寺には枝垂れ桜が多い
温泉谷に降りる

如意輪寺から温泉谷を丹治川沿いに下っていく 人通りは先程の山道同様極端に少ない
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吉野温泉元湯 PM 13:10
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白木蓮も綺麗
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谷から見上げる下千本
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吉野ロープウェイ
運営会社は 吉野大峯ケーブル自動車株式会社で 現存する日本最古の索道路線である
正式名称は吉野山旅客索道で 別名・吉野山ロープウェイとも呼ばれる
吉野鉄道が対岸の吉野駅(現・六田駅)から延伸し吉野川橋梁を渡って現・吉野駅までを開業させたのは
昭和3年(1928)3月25日のことである 翌年の昭和4年3月12日に内田政男と地元の有志が設立した会社が
千本口−吉野山間の索道を開通させた 搬器や鋼索などは更新されているが 駅舎・支柱・外壁など
創建時のものをそのまま使用している 日本機械学会により2012年度の機械遺産に認定された
一般社団法人 日本機械学会 機械遺産HPより転載
吉野山ロープウェイは、旅客運送用として1929(昭和4)年3月12日より「千本口」駅と「吉野山」駅間の
全長349メートル、高低差103メートルに搬器(ゴンドラ)2台で運行開始した、
国内現役最古のロープウェイであり、架設当初の形態を現在までよく保つものとしては世界最古級である。
技術的特徴として、2本の支索の間に走行機を配したえい索2本、平衡索2本による4線交走式機構が採用された。
(現在は平衡索を1本にまとめた3線交走式で運行)
また、停車場や支柱の大型化を抑えるため勾配にあわせた搬器形状が採用されている。
さらに、戦後主流となるロックド・コイル・ロープと呼ばれる表面を平滑化したロープの先進的使用もみられる。
 架線支持部材や支柱は、架設した安全索道商会(現安全索道)の保守により、80年以上経過した現在でも
現役であり、これらは当時のわが国の材料力学、金属材料技術の優秀さを示す証といえる。
 このロープウェイは、創業者 内田政男の「地元のために人を運ぶロープウェイを作りたい」との想いから、
地元有志と共に苦労して実現化し、戦時下の金属供出令の中でも住民の交通手段を守りぬいた。
 吉野山ロープウェイは、わが国有数の桜の名所である吉野山と世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
出発点に位置する交通機関として今日なお、多くの観光客に利用されている。


なお 吉野山の住民の足でもあるため 定期乗車券が販売されている

吉野駅到着は午後1時37分 まだまだ人が吉野山に向かって登って行く
吉野駅14時7分発普通電車に乗車 満席で立って移動 福神駅に到着したのは14時31分であった
本日の歩行距離 約13kmでした
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