東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)

江戸時代に整備された五街道の一つで 江戸日本橋から京三条大橋に至る街道である
徳川家康が慶長6年(1601)に「五街道整備」を発案し 道路制度の改革と整備に乗り出した
五つの街道と「宿=駅」を制定し 道としての「東海道」が誕生することになった
慶長9年(1604)家康の命により大久保長安が 街道の幅員を5間とし また1里を36町と定めて1里毎に塚を築き
エノキを植えて里程の目安とした これは後に一里塚と呼ばれるが 当時は漢語に習い里堠(りこう)と呼ばれた
各宿駅に伝馬の常備を義務付け各駅の駄賃を定める一方 砂利や砂を敷きつめ石畳を設け路面を整備し
道幅を広げ宿場を整備し また松並木の植栽などを行い街道の整備を着々と進めた
東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道の順に街道が整備されたが
後に これを五街道として定めたのは 4代将軍家綱の時代であった
日本橋を五街道の起点として定め 江戸防衛のため街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった
万治2年(1659)に道中奉行職を設け五街道の管轄官とした また 五街道の正式名称が定められたのは
享保元年(1716)徳川吉宗の代になってからである 江戸の日本橋から京の三条大橋に至る宿駅は53ヶ所設けられ
東海道五十三次と呼ばれた 相模国芦ノ湖々畔と駿河国浜名湖々畔に関所を設け
それぞれ 箱根関所・荒井関所と称した 明治以降「荒井」には「新居」の文字が充てられている
江戸−京間の里程は124里8丁(487.8km)あり 日数にして約2週間前後の旅程であった
五十三次の宿駅は下記の通りで 旅籠の総数は3000軒ほどあったといわれている
日本橋−1.品川−2.川崎−3.神奈川−4.程ヶ谷−5.戸塚−6.藤沢−7.平塚−8.大磯−9.小田原−10.箱根−11.三島−
12.沼津−13.原−14.吉原−15.蒲原−16.由比−17.興津−18.江尻−19.府中−20.鞠子−21.岡部−22.藤枝−
23.島田−24.金谷−25.日坂−26.掛川−27.袋井−28.見付−29.浜松−30.舞坂−31.新居−32.白須賀−33.二川−
34.吉田−35.御油−36.赤坂−37.藤川−38.岡崎−39.池鯉鮒−40.鳴海−41.宮−42.桑名−43.四日市−44.石薬師−
45.庄野−46.亀山−47.関−48.坂下−49.土山−50.水口−51.石部−52.草津−53.大津−京三条大橋
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東海道五十三次の内 日本橋 行列振出(後版)
作者の歌川広重(うたがわ ひろしげ)の本名は安藤重右衛門という かつては一般的に安藤広重と呼ばれたが
現在では歌川広重と呼ぶのが妥当とされている ゴッホやモネなどの画家に影響を与えたとされ
世界的にも著名な画家である 広重の作品はヨーロッパやアメリカでは 大胆な構図などとともに
特に藍色の美しさで評価が高い  この鮮やかなインディゴ・ブルーを欧米では「ジャパン・ブルー」
あるいは「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれた 天保3年(1832)の秋に幕府による上京の行列に加わることが許され
東海道を旅する機会を得 道中の風景を写生したとされる 翌天保4年に『東海道五十三次絵』が刊行された
この作品には日本画には珍しい遠近法が用いられ 風や雨を感じさせる動的な描写などが多く採用され
当時の庶民が抱える外界への旅心や好奇心をかき立て また美しい風景を描写した紀行画として大好評であった
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現在の日本橋 石造二連アーチ橋 橋長:49m 幅員:27m 明治44年(1911)架橋
石造アーチ橋として2代目 通算において19代目の橋となる 橋の中央には道路元標が埋め込まれ
今でも 国道1号・4号・6号・14号・15号・17号・20号の各路線の0km元標となっている

寛永10年(1633)に伝馬および継飛脚の制度が定められ 各宿駅に人夫100人・馬100匹を常備し
幕府や大名などの往来に供したが後に規模を縮小している この他 武家以外の庶民が利用する駄賃伝馬があった
当初は各宿駅で250人200匹を常備する定めであったが 規模が大きく履行するには至らなかった
幕府は各宿駅の田租を免除する一方 飼馬の地を与え 継飛脚および問屋に給米を支給し宿手代に手当を与えるなど
宿駅制度と街道の維持による財政負担は大きかった しかし利便性のみを追求したわけでもなく防衛上の理由から
小田原の酒匂川・駿府の興津川と安倍川・そして大井川の4河川には 橋を架けず渡し船をも禁止して
旅人には川を徒渉させた 特に大井川の徒渉は難儀を極め 川越人足や馬による補助が必要であった
江戸幕府というのは 国の繁栄よりも 諸藩の反乱に備え 一途に徳川家の安泰のみを希求した制度を施行した
しかし これら河川の上流域は全国有数の多雨地域のため 増水による川止めが頻発し長期化することも度々あった
故に 参勤交代の大名から庶民まで旅費が嵩み旅人を大いに苦しめた 反面 川越業と両岸の旅籠は大いに繁栄した
このように 大井川は東海道屈指の難所とされ「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と揶揄された
大井川に渡船が設けられたのは明治4年(1871)のこと また 橋は明治12年(1879)に漸く逢来橋が架橋された
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東海道五十三次 大尾 京師 三条大橋
京師(けいし)とは漢語(中国語)で帝都を表す言葉で 江戸時代では京を指す
橋脚が木製のように描かれているが 江戸時代の橋脚は石造であった

律令時代の東海道は官道として東海道にある国府を繋ぐもので 五畿七道の中路であった 律令時代の交通手段は
主に馬が使われ 起伏を考慮するよりも直線的に拓かれ道幅は広くとられた しかし 架橋技術が未熟で
多くの大河は その下流域を徒渉により通過するため むしろ東国へは後の中山道となる東山道が利用された
古道の東海道は  中世に大半が改廃されたため現在では正確な道筋については不明なところが多い
ただ 畿内に近い所では凡その経路が判明している 畿内への出入りとして飛鳥に都が置かれた時期には
大和の宇陀から伊賀を経由し加太越へ 平城京に遷都されると平城山を北上し木津から伊賀を経由し加太越へ
平安京に遷都されると大津から近江国を経て甲賀から鈴鹿越へとルートが変遷していく
濃尾平野の南端部は河川の氾濫が多く 伊勢湾を横断する海路が早くから存在し江戸時代の七里の渡しへと繋がる
また 東山道の不破関を通り垂井宿から熱田の宮宿に出る脇道の存在は 後の美濃路の原型となった
鈴鹿峠は 仁和2年(886)に拓かれ 現在も国道1号のルートとして残っている
平安時代中期における律令制の弛緩に伴い 官道としての役割から経済活動に伴う現実的な交通が必要となり
その経路も起伏を考慮した現実的なものとなっていく 鎌倉時代の鎌倉極楽寺坂切通しと京都粟田口を結ぶ街道は
鎌倉街道と呼ばれたり海道と呼ばれたりしていたが 旧時代の東海道ルートを踏襲したものではなく
全般的に古代の東海道よりかなり内陸寄りのルートであった また濃尾平野を北西に進み大垣を通り東山道と合流し
不破関を通過して近江・大津から京へ向かうのが本道とされていた  この鎌倉街道は後も主要な交通路として
利用され続けた 戦国時代には 東海道中に名だたる戦国武将の根拠地が築かれて 交易がますます盛んとなり
江戸時代の東海道五十三次の原型が出来上がっていった
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現在の 三条大橋
最初に 橋が架けられた時期は不明であるが 天正18年(1590)に 豊臣秀吉の命により五条大橋と共に
増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された 江戸時代には東海道の橋として幕府直轄の公儀橋になった
その後は流出の度に幕府の経費で架け替え・修復が行われた 天正時代の石造橋脚は大正時代まで使われ
大正時代の改築工事では 天正時代の姿に合わせた石造橋脚が使われ現在も下流側に存在する
過去に取り替えられた橋脚は 京都御苑の高倉橋に使われているらしいが定かではない
欄干の青銅製擬宝珠は 天正時代のままである 現在の橋本体は昭和25年(1950)に架けられた
三条大橋のたもとに残る石の橋脚には 「天正」の刻銘がある