四国の街道

四国には大断層である中央構造線が 徳島市吉野川北岸から四国中央市を抜け 佐田岬半島にかけて東西に貫く
吉野川の北部及び 中央構造線以南には 各県を分断するような形で四国山地や讃岐山脈の山々がそびえ
この地形と合わせ 中生層・古生層による地質のため浸食が激しく
また比較的新しい第四紀火山がないことが 災いして 新しい地層の創成がなかった為に 谷が深く険しい地形が
各県境を塞いでいる 昭和後期まで四国の 国道は「酷道」と揶揄されてきた
これには江戸期を通じて行われてきた 徳川幕府の支配体制にも一因がある
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藩制は17世紀半ばから維新に至るまで変わらず 阿波国は徳島藩の1国1藩
土佐国は土佐藩と新田藩の1国1藩1支藩 讃岐国は高松藩と丸亀藩の1国2藩1支藩
伊予国は宇和島藩・吉田藩・大洲藩・新谷藩・松山藩・今治藩・小松藩・ 伊予西条藩の1国6藩2支藩で統治された
今治藩と高松藩の松平家は一部譜代があるとしても徳川親藩である
また外様大名家もすべて関ヶ原東軍側であり 徳川家にとっては四国は安定した領域であったと思われ
維新まで天領は恒久的には置かれなかった このことは幕府による街道整備がなされなかったことと合致する
以下は藩と藩・国と国を繋ぐ主なる街道である その他藩内・国内の街道及び金比羅参詣道が存在する
●四国遍路道
四国88ヶ所を巡る古道で 後に街道として整備された部分が多くある
●撫養街道(川北街道)
律令時代の官道が整備された道で 南海道紀伊国加太湊から淡路国由良湊に渡り陸路を福良湊まで至る
淡路国福良湊より再度海を渡り阿波国撫養湊に上陸して吉野川北岸を阿波池田まで通じる
阿波池田で伊予街道と合流する
●伊予街道
徳島城鷲の門から吉野川南岸を通り 阿波池田で撫養街道と合流 川之江で讃岐伊予街道と合流する
●志度街道
撫養街道の阿波大寺から志度を経由して高松に至る
●讃岐伊予街道
丸亀湊から観音寺・川之江を経由して伊予小松に至る
●土佐浜街道
徳島城鷲の門から日和佐を経て野根で遍路道と別れ田野を通り土佐に至る 遍路道は室戸岬に通ず
●土佐中街道
浜街道土佐橘で分岐 奥物部を経て土佐に至る
●土佐北街道
讃岐伊予街道の川之江から南へ大豊を経て高知に至る山間道である
浜街道・中街道・北街道ともに難所が多く土佐からは通常上方及び江戸へは海路を利用する
そのため土佐は上方文化・江戸文化の影響を強く受けることになる
●松山街道
松山から砥部・久万。池川・越知・伊野を経由して高知に至る山間道である