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明治の関西鉄道と南近畿私鉄路線の伸展
● 私鉄各社沿革 | |||
明治18年(1885) | 阪堺鉄道 | 12月 | 難波−大和川間を軌間838mmで開業 純民間資本としては日本最初の私鉄 |
明治21年(1888) | 阪堺鉄道 | 5月 | 吾妻橋(堺)まで延伸開業 |
明治22年(1889) | 関西鉄道 | 12月 | 草津−三雲 開業 |
大阪鉄道 | 5月 | 湊町−柏原 開業 | |
明治23年(1890) | 関西鉄道 | 2月 | 三雲−柘植 開業 |
大阪鉄道 | 9月 | 柏原−亀の瀬(仮)開業 | |
大阪鉄道 | 12月 | 王寺−奈良 開業 | |
関西鉄道 | 12月 | 四日市−柘植 開業 | |
明治24年(1891) | 関西鉄道 | 8月 | 亀山−一身田(いしんでん) 開業 |
関西鉄道 | 11月 | 一身田−津 開業 | |
大阪鉄道 | 2月 | 稲葉山(仮)−王寺 開業 | |
大阪鉄道 | 3月 | 王寺−高田 開業 | |
明治25年(1892) | 大阪鉄道 | 2月 | 亀の瀬隧道完成 亀瀬・稲葉山仮駅廃止 湊町−奈良 全通 |
明治26年(1893) | 大阪鉄道 | 5月 | 高田−桜井 開業 |
明治27年(1894) | 関西鉄道 | 7月 | 四日市〜桑名(仮)開業 |
明治28年(1895) | 関西鉄道 | 5月 | 桑名(仮)−桑名間延伸開業 名古屋 - 前ヶ須間開業 |
大阪鉄道 | 5月 | 天王寺−玉造 開業 | |
浪速鉄道 | 8月 | 片町−四条畷 開業 | |
奈良鉄道 | 9月 | 京都七条(京都)−伏見 開業 | |
大阪鉄道 | 10月 | 玉造−大阪間の開業によって城東線と呼ばれた環状東回り部分が全通した | |
奈良鉄道 | 11月 | 伏見−桃山 開業 | |
関西鉄道 | 11月 | 弥富−桑名間の開業によって草津−名古屋が全通した | |
明治29年(1896) | 奈良鉄道 | 1月 | 桃山〜玉水 開業 |
奈良鉄道 | 3月 | 玉水−木津 開業 | |
奈良鉄道 | 4月 | 木津−奈良 開業 | |
南和鉄道 | 5月 | 高田−葛(吉野口)開業 | |
南和鉄道 | 10月 | 葛−五条−二見 開業 | |
明治30年(1897) | 関西鉄道 | 1月 | 柘植−上野 開業 浪速鉄道を合併(片町〜四条畷) |
浪速鉄道 | 2月 | 片町−四條畷間の路線を関西鉄道に譲渡 会社解散 | |
南海鉄道 | 10月 | 堺−佐野(現・泉佐野)間で開業 堺駅は阪堺鉄道と共同使用 | |
阪堺鉄道 | 12月 | 阪堺鉄道が明治22年に着工した改軌が完工 軌間 1067mmになる | |
南海鉄道 | 12月 | 南海鉄道が阪堺鉄道の路線を使用して難波−尾崎間を開業 | |
明治31年(1898) | 関西鉄道 | 4月 | 四条畷−長尾 開業 |
関西鉄道 | 4月 | 加茂−大仏(大仏線)開業 | |
紀和鉄道 | 4月 | 橋本−五条 開業 | |
奈良鉄道 | 5月 | 京終−桜井 開業 | |
紀和鉄道 | 5月 | 和歌山−船戸 開業 | |
関西鉄道 | 6月 | 長尾−新木津 開業 | |
関西鉄道 | 9月 | 新木津−木津 開業 | |
阪堺鉄道 | 10月 | 南海鉄道に事業譲渡し会社解散 | |
南海鉄道 | 10月 | 和歌山北口駅(現・紀ノ川駅)まで延伸開業 | |
関西鉄道 | 11月 | 放出−網島・加茂−新木津 開業 名古屋−網島が全通 急行列車運行開始 | |
明治32年(1899) | 関西鉄道 | 5月 | 大仏−奈良 開業 大仏線全通 |
奈良鉄道 | 10月 | 奈良−京終 開業 京都七条(京都)−桜井間が全通 | |
明治33年(1900) | 大阪鉄道 | 6月 | 関西鉄道に湊町−奈良・王寺−桜井・天王寺−大阪の全路線譲渡 会社解散 |
関西鉄道 | 6月 | 大阪鉄道を譲受し名阪路線を奈良経由に変更して大仏線が本線となる | |
紀和鉄道 | 8月 | 船戸−粉河 開業 | |
南海鉄道 | 10月 | 天下茶屋−天王寺間の支線を開業 | |
紀和鉄道 | 11月 | 粉河−橋本が開業して 和歌山−五条間が全通 | |
明治34年(1901) | 関西鉄道 | 12月 | 網島−桜宮 開業 |
明治35年(1902) | 南和鉄道 | 6月 | 紀和鉄道との分岐点に二見駅を設置 旧二見駅を川端駅と改称 |
明治36年(1903) | 南海鉄道 | 3月 | 米国製の紀ノ川橋梁が竣工 和歌山市駅まで延伸し全通開業した |
紀和鉄道 | 3月 | 南海鉄道・和歌山市駅連絡線開業 | |
明治37年(1904) | 紀和鉄道 | 8月 | 和歌山市−和歌山−二見の全線を関西鉄道に譲渡 会社解散 |
南和鉄道 | 12月 | 川端−二見−高田間の全線を関西鉄道に譲渡 会社解散 | |
明治38年(1905) | 奈良鉄道 | 2月 | 京都七条−桜井間の全線を関西鉄道に譲渡 会社解散 |
明治40年(1907) | 関西鉄道 | 8月 | 加茂−新木津間廃止 新木津駅廃止 大仏線廃止 |
関西鉄道 | 10月 | 全線 鉄道国有法により国有化 |
● 現代の地図に明治43年の網島付近の線路を描く 城東線・桜ノ宮線・片町線・京阪電気鉄道
大阪市都島区南通一丁目 Google Stv
一番奥から現在の環状線・単線時代の大阪鉄道(城東線)・複線の桜ノ宮線 レンガはイギリス積み
一番奥から現在の環状線・単線時代の大阪鉄道(城東線)・複線の桜ノ宮線 レンガはイギリス積み
大阪市都島区片町二丁目 Google Stv
築造明治43年の城東線と京阪電気鉄道の立体交差ガード 上が現在の環状線 レンガはイギリス積み
国有化後の関西鉄道と南近畿の私鉄
関西鉄道は名古屋〜大阪網島間全通の後 官営鉄道東海道線との間に熾烈な乗客獲得競争を繰り広げる
乗客サービスはまず関西鉄道側から仕掛けられ これに官鉄側が追随するかたちとなり
一時期沈静化のきざしがあったものの 国有化されるまで決して終わることはなかった
大阪鉄道との合併によって近畿地方での存在感が高まるにつれ
周辺の私鉄も関西鉄道に合流する機運が高まり 明治37年(1904)に紀和鉄道が合併
同年に近畿鉄道合同委員会が設立され 南和鉄道 奈良鉄道が合流合併した
南海鉄道は委員会に加わったものの合併に至らなかった
このことが後年における早期の南海鉄道の電化及び複線化に繋がったことは皮肉であった
明治39年(1906)公布の鉄道国有法により 明治40年(1907)10月1日に買収国有化された
国有化と言えども有無をも言わさぬ国による接収に近く
ここで漸く 熾烈を極めた乗客獲得競争にピリオドがうたれたことで
何にもまして官鉄側の安堵は想像に難くない
未開業路線を含む全ての路線 機関車121両 客車571両 貨車1273両が引き継がれた
同法の立法趣旨が 主要幹線の国有化と一元管理であることを念頭において
「一地方のみの閉塞的路線である」との理由により国有化除外の請願書を提出したが受理されなかった
競合する路線である民営鉄道を残すべきではないと言う 官鉄側の強い意志でもあった
これは明治政府そのものである強権体質を具現化した処置といえる
官鉄を追い込み怒りをかうほど 熾烈な乗客獲得競争を繰り広げたといえる
国有化直前に同社は 主要幹線である湊町−奈良−京都間と名古屋−河原田間
および城東線(現・大阪環状線東側)の電化計画を立てて認可を受けていた
これは国有化に当たって買収額を高くするための方策であったとするうがった見方もあるが
その後の(代2)大阪鉄道 大阪電気軌道(のち2社が母胎となって近畿日本鉄道が生まれる)
南海電鉄 京阪神急行電鉄 阪神電鉄 阪和電気鉄道等 関西における電気鉄道の発展は
紛れもない事実であり そのうがった見方も的はずれであったと言えよう
国有化後は東海道線の競合路線として見なされることもなく 複線電化は認可無きものとして
国有化後は全く顧みられなかった わずか大阪市街地を走る城東線・片町線が
早くに電化された以外は皆無といって良い その多くの路線はローカル鉄道に甘んじ
1920年代以降に発展した現在の近畿日本鉄道の路線網に機能をとって代わられた
今だJRの駅前は近鉄のそれに比べ侘びしいものがある
関西鉄道との熾烈な乗客獲得競争に 強権で持って終止符を打った官営鉄道の安堵感は
全国に幹線鉄道を敷設をするという使命感に一層の輝きを与え 乗客へサービスを提供し利益を得る
という営利的行為を影へと追いやった その後の官営鉄道は 路線新設に政治家の過度な干渉を受け
経営効率の改善や乗客へのサービスを怠る風潮に支配された 多くの乗客は 二等車の硬い座席が
これも旅情の思い出と考えられる程に慣らされた 明治末期から大都市と近郊間に設立された各電鉄が
乗客創出のため郊外の駅周辺に住宅地を建設し ターミナルに百貨店などの商業施設を直営するという
営利企業としての当然の姿は 官営鉄道からは程遠いものであった
関西鉄道の国有化後80年目となる1987年(S62)に 日本国有鉄道は解散・民営化され各JRとなった
政治家の干渉で赤字ローカル線を多大に抱える羽目となり 今度は経済効率のみを追求され
政治によって雪崩をうつように民営化へと突き進んだ そして「ライフラインの構築」という
輝く使命も それを行うべき国家政府自ら逃避するように剥奪し忘却してしまった
20世紀末のこの出来事から現代まで 大都市への一極集中に拍車がかかり
切り捨てられた地方の疲弊はとどまることを知らない
関西鉄道の主要路線を引き継いだ国鉄関西本線は もはや主要幹線とは言い難く その電化工事は
昭和39年(1964)の華やかな東海道新幹線開通から9年後となり 通勤近郊型路線として
大阪側が 昭和48年(1973)にようやく湊町−奈良間が完成した
しかし現在も 加茂−亀山間は非電化区間として残されている
<雑談>
大阪に住む頃利用していたのが阪和線 その歴史は阪和電気鉄道〜南海電鉄山手線〜国鉄阪和線と
遍歴を重ねるが その直線に近く勾配の少ない路線を使い 公式記録では無いが
戦前の阪和電鉄において 当時で130キロというスピードを出していたと噂される
これは時計を見ながら 線路の継ぎ目で起きる音を数えるという方法で計測されたものである
同線での公式記録に残る 1933年12月に超特急電車として出した表定速度の 81.6km/hは
営業運転される定期列車として1950年代以前の日本国内最高記録であった
戦後に国鉄特急「こだま」号が表定速度83.46km/hを出した1959年まで
実に26年間も破られない超絶的レコードとなっている
私が利用していた頃に モヨ3000・モタ3000とよばれる車両が残っていた
外観はノーシル・ノーヘッダーという現代的姿で 南海時代には 床はリノリューム貼り
電気回生ブレーキの近代的装備であったが 国有化後は床は木板張りに変えられ
ブレーキは空気制動に改装されてしまったと記録されている
国鉄での電気回生ブレーキの導入とは十数年の隔たりがある
築造明治43年の城東線と京阪電気鉄道の立体交差ガード 上が現在の環状線 レンガはイギリス積み
国有化後の関西鉄道と南近畿の私鉄
関西鉄道は名古屋〜大阪網島間全通の後 官営鉄道東海道線との間に熾烈な乗客獲得競争を繰り広げる
乗客サービスはまず関西鉄道側から仕掛けられ これに官鉄側が追随するかたちとなり
一時期沈静化のきざしがあったものの 国有化されるまで決して終わることはなかった
大阪鉄道との合併によって近畿地方での存在感が高まるにつれ
周辺の私鉄も関西鉄道に合流する機運が高まり 明治37年(1904)に紀和鉄道が合併
同年に近畿鉄道合同委員会が設立され 南和鉄道 奈良鉄道が合流合併した
南海鉄道は委員会に加わったものの合併に至らなかった
このことが後年における早期の南海鉄道の電化及び複線化に繋がったことは皮肉であった
明治39年(1906)公布の鉄道国有法により 明治40年(1907)10月1日に買収国有化された
国有化と言えども有無をも言わさぬ国による接収に近く
ここで漸く 熾烈を極めた乗客獲得競争にピリオドがうたれたことで
何にもまして官鉄側の安堵は想像に難くない
未開業路線を含む全ての路線 機関車121両 客車571両 貨車1273両が引き継がれた
同法の立法趣旨が 主要幹線の国有化と一元管理であることを念頭において
「一地方のみの閉塞的路線である」との理由により国有化除外の請願書を提出したが受理されなかった
競合する路線である民営鉄道を残すべきではないと言う 官鉄側の強い意志でもあった
これは明治政府そのものである強権体質を具現化した処置といえる
官鉄を追い込み怒りをかうほど 熾烈な乗客獲得競争を繰り広げたといえる
国有化直前に同社は 主要幹線である湊町−奈良−京都間と名古屋−河原田間
および城東線(現・大阪環状線東側)の電化計画を立てて認可を受けていた
これは国有化に当たって買収額を高くするための方策であったとするうがった見方もあるが
その後の(代2)大阪鉄道 大阪電気軌道(のち2社が母胎となって近畿日本鉄道が生まれる)
南海電鉄 京阪神急行電鉄 阪神電鉄 阪和電気鉄道等 関西における電気鉄道の発展は
紛れもない事実であり そのうがった見方も的はずれであったと言えよう
国有化後は東海道線の競合路線として見なされることもなく 複線電化は認可無きものとして
国有化後は全く顧みられなかった わずか大阪市街地を走る城東線・片町線が
早くに電化された以外は皆無といって良い その多くの路線はローカル鉄道に甘んじ
1920年代以降に発展した現在の近畿日本鉄道の路線網に機能をとって代わられた
今だJRの駅前は近鉄のそれに比べ侘びしいものがある
関西鉄道との熾烈な乗客獲得競争に 強権で持って終止符を打った官営鉄道の安堵感は
全国に幹線鉄道を敷設をするという使命感に一層の輝きを与え 乗客へサービスを提供し利益を得る
という営利的行為を影へと追いやった その後の官営鉄道は 路線新設に政治家の過度な干渉を受け
経営効率の改善や乗客へのサービスを怠る風潮に支配された 多くの乗客は 二等車の硬い座席が
これも旅情の思い出と考えられる程に慣らされた 明治末期から大都市と近郊間に設立された各電鉄が
乗客創出のため郊外の駅周辺に住宅地を建設し ターミナルに百貨店などの商業施設を直営するという
営利企業としての当然の姿は 官営鉄道からは程遠いものであった
関西鉄道の国有化後80年目となる1987年(S62)に 日本国有鉄道は解散・民営化され各JRとなった
政治家の干渉で赤字ローカル線を多大に抱える羽目となり 今度は経済効率のみを追求され
政治によって雪崩をうつように民営化へと突き進んだ そして「ライフラインの構築」という
輝く使命も それを行うべき国家政府自ら逃避するように剥奪し忘却してしまった
20世紀末のこの出来事から現代まで 大都市への一極集中に拍車がかかり
切り捨てられた地方の疲弊はとどまることを知らない
関西鉄道の主要路線を引き継いだ国鉄関西本線は もはや主要幹線とは言い難く その電化工事は
昭和39年(1964)の華やかな東海道新幹線開通から9年後となり 通勤近郊型路線として
大阪側が 昭和48年(1973)にようやく湊町−奈良間が完成した
しかし現在も 加茂−亀山間は非電化区間として残されている
<雑談>
大阪に住む頃利用していたのが阪和線 その歴史は阪和電気鉄道〜南海電鉄山手線〜国鉄阪和線と
遍歴を重ねるが その直線に近く勾配の少ない路線を使い 公式記録では無いが
戦前の阪和電鉄において 当時で130キロというスピードを出していたと噂される
これは時計を見ながら 線路の継ぎ目で起きる音を数えるという方法で計測されたものである
同線での公式記録に残る 1933年12月に超特急電車として出した表定速度の 81.6km/hは
営業運転される定期列車として1950年代以前の日本国内最高記録であった
戦後に国鉄特急「こだま」号が表定速度83.46km/hを出した1959年まで
実に26年間も破られない超絶的レコードとなっている
私が利用していた頃に モヨ3000・モタ3000とよばれる車両が残っていた
外観はノーシル・ノーヘッダーという現代的姿で 南海時代には 床はリノリューム貼り
電気回生ブレーキの近代的装備であったが 国有化後は床は木板張りに変えられ
ブレーキは空気制動に改装されてしまったと記録されている
国鉄での電気回生ブレーキの導入とは十数年の隔たりがある